2006年01月11日
「特攻」と日本人
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昨日の「自爆テロリストの正体」と一緒に読んでいた本。
9.11の自爆テロリストと第二次世界大戦の日本の特攻隊員は、まったく異なる心理で死んでいったはずだとする本。昭和史研究の功績で菊池寛賞を受けた専門家による、特攻の意味を再考する本。
戦没学生の手記をまとめた「きけわだつみのこえ」は戦争評価に大きな影響を与えたが、この本が編集されたのは昭和24年の占領下日本であった。だから、占領政策による制約や編集者の意向もあって、あまりに情緒的過ぎるもの、軍国主義的なものは省かれていた。この本には、わだつみに収録されなかった遺稿が多数紹介されている。
書かれたのは戦時中であるから、表面上は特攻隊員に選ばれたことは名誉だというものが多い。しかし、残される家族への思いを吐露する部分では、その死を栄光と自発的に考えていたものなど、ほとんどいなかったのではないかと思える。
行間に滲み出てくるのは、それを名誉とでも思わなければ、目の前に突きつけられた自爆死に、しらふでは向き合えなかったこころの防衛機制である。「お国のために」死にたいというのは、職業軍人はともかく、特攻の7割を占めた学徒出陣組の本望ではなかったはずだと著者は書いている。
「
私は安田や吉田の世代ではないから、とうてい同じ姿勢で遺稿を読むことはできない。死者と同一化して読むことはできない。逆に客観化して読むことができる。客観化とは何か。特攻で逝った戦没学徒の遺稿を歴史の目で読むことである。彼らはこのような時代にあって、何を求めたのかというあたりまえのことを確認することができるのだ。そのことは、いささか大仰に言うなら、<予定された死>と向きあうときに知性や理性はどのように解体されたかを私たちは学ぶことができるのだ。
」
特攻を祖国愛に燃えての行為とみなしてはならないと著者は説く。英霊とまつりあげたり、犬死にと意味づけたりするのは間違っている。彼らは、感性を軸にしたナショナリズムで戦略もなく戦った国家の犠牲になった、尊い命だったと考えるべきだ著者は結論する。
著者は息子に特攻を語り継ぐ意義を問われ、「でも、特攻隊因が体当たり攻撃をすることによって、アメリカの海兵隊員も何百人も死ぬわけだろう」と言われて、愕然としたと書いている。海外のジャーナリストは9.11の自爆テロリストとどう違うのかと著者に質問したらしい。戦後60年が経過した。特攻隊員の行為の解釈はもはや常識ではない。歴史的な意味の説明が今、求められている。
極限下の状況で、お国のための名誉の戦死を死ぬことにしか、自らの死の肯定的な意味づけを見出せないようにまで追い込んだ、国家の責任を追及することはできる。しかし、戦後60年の今、犯人探しと責任追及はほとんど無意味である。
当時の特攻戦術を軍部が何度も却下しながら、戦況の悪化と共に徐々に肯定ムードへ傾いていく時代の空気の変化がこの本にはまとめられている。誰か大悪人の司令官が特攻で若者は死ねといったわけではないのである。このじわじわとなし崩しになっていく部分が怖いのだろうと思った。
私たちの世代に日本がまた戦争に巻き込まれないとは断言できない。社会の空気がじわじわと変わっていくとき、私たちはそれに気づけるだろうか。知性や理性の解体に有効な阻止の手立てを打てるだろうか。著者の言う「戦没学徒の遺稿を歴史の目で読むこと」は、過去を裁くためというより、未来に備えるために必要な歴史学なのだと考えた。
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Posted by daiya at 2006年01月11日 23:59 | TrackBack