2005年11月29日
羞恥心はどこへ消えた?
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レンタルビデオ店でアダルトビデオを借りる際の男子学生200人の行動を調査分析したところ、そこには4つの作戦が発見されたという。
隠蔽工作
・カウンターに他の客がいないときを狙う
・カウンターに女性の店員がいないときを狙う
偽装工作
・用がなくても他のビデオコーナーを回る
・アダルトビデオ以外にも興味があるように装う
関与否認
・連続して借りない
・借りたらしばらくその店にいかない
他人行儀
・店員にわざと無愛想にふるまう
・店員とはできるだけ視線を合わせないようにする
地べたに座り込んだり、電車で化粧をしたりと、若者は羞恥心が薄れたなどと言われるが、こんな事例を見るとまだまだ根強く機能していることがわかる。羞恥心は進化上、極めて重要な役割を果たしてきた人間社会にとって本質的なものだと著者は論じる。
「
羞恥心は単なる自己顕示欲や虚栄心といった世俗的なプライドを守る道具ではない。人類が社会に依存して生きることを決めたときから、世代を重ねる中でアップグレードされてきたシステムである。進化心理学の視点から考えてみると、恐らく人類史の中で敏感な羞恥心を持たない人物は、社会から排斥されその形質を後世に伝えることができなかったはずだ。これが繰り返される中、より優秀な羞恥心の持ち主が社会の中で生き残り、このシステムはさらに洗練されていったものと考えられる。
」
人間は集団で生きるため、自分の中に「集団の存続や福祉に貢献できないこと」「協調性や道徳性の欠如」「対人魅力の欠如」につながる要素をみつけると強い不安を感じる。社会から排斥されてしまうのではないかと恐れて改善しようとする。そのセンサーとしてはたらくソシオメーターが、羞恥心なのだ。
この本に紹介された研究結果によると、羞恥心は以下の式で計算できる。
羞恥心=相手との関係の重要度×自己への評価の不安度
この式では、自分の会社の社長と初対面で失言をしてしまったときはかなり恥ずかしい、と例がある。関係は家族のように極めて親密であったり、二度と会うことがない他人のように極めて疎遠であったりすると、羞恥心は鈍くなる。ほどほどに親しい関係の相手が最も恥ずかしさを感じる対象であるようだ。
「ミウチ」「タニン」「セケン」という日本文化の区分けでいうと、ミウチとタニンはあまり羞恥心を感じない。「セケン」は恥ずかしいということになる。最近の若者の羞恥心の弱体化は「地域社会のセケン機能の低下」「地域社会のタニン領域への移行」「セケンの機能細分化とミニセケンの増加」というセケン弱体化と関係があるのではないかと書かれている。
ジベタに座り込む若者は、その地域社会をセケンと考えていないし、仲間同士の目だけを気にするミニセケンに生きていると指摘する。アンケート調査の分析により、ジベタに座ることが恥ずかしくないから、ではなくて、座らない方が仲間内で恥ずかしいから座っていることが判明する。羞恥心は弱体化したのではなく、感じる部分が変化してきただけなのだ。
羞恥心は文化によってかなり異なるようだ。世界には裸で暮らす民族がいるが、彼らの社会では男性は女性の性器を直視してはいけないという厳しい規律があるのだという研究が紹介されていた。
この話を聞いて、ちょっと思い出してしまった。
昨年の今頃、私は中国に出張中の休日、山東省の奥地、泰山という場所を訪問していた。
・孔子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002572.html
昨年の中国訪問のレポート。
ここにある大きな比較的高級と思われるホテルに宿泊した。泰山は観光地とはいえ外国人に人気とは思えない。やはり中国人ばかり。私たち以外に外国人滞在者はいないような印象だった。そのホテルにはスパがあった。別料金の大浴場である。部屋の小さな風呂に入るより、そっちのほうがいいじゃないかと出かけたのが、羞恥心を深く考えるきっかけになる事件の始まりだった。
私は中国語は喋れない。ホテルの従業員は英語が喋れない。基本的に意思疎通は困難な状況であったが、お風呂くらい万国共通でしょうと思っていた。ちょっと違った。
まず途方にくれたのがスパの着替えのロッカールームに入ったときである。ホテルの係の男性が何人も迎えてくれるのだが、どうやら彼らの前で素っ裸になるらしい。いきなり気恥ずかしかったが風呂であるので当然かと思って脱ぐとロッカーの鍵をくれる。
こころもとなく鍵を握り締め、裸で大浴場に入った。特大プールのように、大きくて快適な風呂だ。桶でいったん汗を流して湯船に使った。ふー。観察する余裕ができる。湯気の向こうには、ベッドが10以上あって、地元客がうつ伏せや仰向けに寝転がっている。ちょっと異様なのはそれぞれの客に一人、洗う係の男性がついている。どうやら別料金で体を洗ってくれるようなのだ。
男性が男性を至れり尽くせりな状態で丁寧に洗っている風景は、日本人の私からすると既に恥ずかしい感じがしたのだが、女性が男性を洗っていてもまたそれはそれで大変なことになってしまう。まあこれもお国柄でアリなサービスなんだなと感慨にふけりながら、ちらちら見ていると、驚きのサービスが含まれていた。体を洗う際に局部も洗ってもわうわけだが、洗い係はサオの部分を手で持ち上げて丁寧に洗ったりしているのである。これは見ているほうが恥ずかしくなってしまう。
裸体に対する羞恥心は日本人と中国人ではかなり違うようだとわかった。彼らは洗い場でもロッカールームでも堂々と隠さない。さすが大陸文化はおおらかなのだなあとしみじみ感動した体験だった。郷に入れば郷に従えということか。
しかし、恥ずかしさを表現する、赤面やぎこちない微笑や手で顔を隠すジェスチャーは万国共通のものであると、この本には書かれている。こうした表情は「私はだめな人間です」と同時に「自分は失敗したと自覚している」というメッセージを周囲に伝達し、「わざとやったわけではなく、社会のルールを守る意思はある」という態度を明示する作用がある。実際、羞恥の表情は、見るものの好感度を高め、不信感や怒りを鎮める効果があるそうである。
長い進化の結果、得た形質だから万国共通なのだろう。じゃあ、恥ずかしさの万国博覧会などあったら傑作かもしれない。意外なものに赤面する様を相互鑑賞する国際交流が心の裸のつきあいにつながったりして。
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Posted by daiya at 2005年11月29日 23:59 | TrackBack