2005年12月04日

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・グロテスクな教養
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■君たちはどう生きるか

著者によると、学歴エリートが「僕は単なる受験秀才じゃないぞ」を確認しあうための孔雀の羽として、教養を肥大化させてきたのだという。日本においては受験における勝利の評価が低いので、だからこそ学歴エリートはもう一段上の自分を形成するために教養を求めたと分析されている。

そうした一部の人たち向けの典型的な指南書として、雑誌「世界」の編集長となる吉野源三郎著「君たちはどう生きるか」が何度も引用されている。

・君たちはどう生きるか
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これは私も学生時代に読んだ。ベストセラーである。

「君のような恵まれた立場にいる人が、どんなことをしなければならないか、どういう心掛けで生きていくのが本当か」を語る内容。著者曰く「どう生きるかを主体的に選びうる「君たち」というのが実は少数の特権的な男の子たちだけを指して」いるとする。

そして「きけわだつみのこえ」も同じ世代に影響を与えた一冊として紹介される。

・きけわだつみのこえ―日本戦没学生の手記
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酷薄な状況の中で,最後まで鋭敏な魂と明晰な知性を失うまいと努め,祖国と愛する者の未来を憂いながら死んでいった学徒兵たち.一九四九年の刊行以来,無数の読者の心をとらえ続けてきた戦没学生たちの手記を,戦後五○年を機にあらためて原点に立ちかえって見直し,新しい世代に読みつがれていく決定版として刊行する.

学徒兵が塹壕の中でファウストやドストエフスキーを読むような教養の高さを示した。こちらは「君たちはどう死ぬか」についての本である。

かつての教養はエリート層が世界をよりよいものにしようとする責任感=ノーブレス・オブリージュの源であった。この生きがいの独り占めが教養の正統性を支えていた。

■慢性孤独病のマゾヒズムとしての教養

二十歳で哲学自殺した原口 統三の二十歳のエチュードが、学生運動世代の教養主義のいびつさを伝えるものとして紹介されている。

・二十歳のエチュード
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「原口 統三
1927年1月14日、京城に生まれる。新京・奉天・大連をへて1944年第一高等学校文科丙類入学。ボードレール、ランボーらへの親炙、ヴァレリー、ニーチェとの対決をへて純粋意識と生の相克を詳細な遺稿断章「エチュード」に遺し、1946年10月25日、神奈川県逗子海岸にて入水自殺」

この本が出て連想した「二十歳の原点」の高野悦子も似たような事例だろう。

・二十歳の原点
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「独りであること、未熟であることを認識の基点に、青春を駆けぬけた一女子大生の愛と死のノート。自ら命を絶った悲痛な魂の証言。 」


こうした形而上学的な悩みを抱えて死ぬというのは、つまるところ、教養の、慢性孤独病のマゾヒズム的な側面を表している。

■制度化に締め出された人文学と、商品化の共犯者としての出版社

一部の学歴エリートたちの教養主義であったものが、大学の大衆化によって万人のものとなる過程で、教養は実用教育の効用にとって変わられていく。そして行き場のなくなった教養が出口を求めたのが出版と言う商品化であったという。


いわば教養とはじつはこのとき〔近代国家の成立時〕制度の外に置かれ実用性を認められずに資格授与を許されなかった知識だといえる。教養とは制度化された知識の余白にほかならず、逆説的に近代国家によって生み出された私生児だったのである。そのさい自然科学と社会科学の大部分は実用性を認められ、国家の学校教育の中で制度化されたが、曖昧なのは人文学であった。さて、こうした制度化に締めだされて成立した教養を救い、たくみに社会的地位を与えたものも揺籃期の大衆社会であった。そのための唯一の方法こそ、ほかならぬ知識の商品化であり市場化だったのである

「教養の危機を超えて」山崎正和より引用

岩波書店、中央公論、みすず書房、東京大学出版会、平凡社、頸草書房、青土社、未来社、筑摩書房などの老舗人文出版社が、教養の商品化に手を貸した共犯者であるという。この本も筑摩書房から出版されているのだが...。

事例として、ニュー・アカの旗手、浅田彰の構造と力が出てくる。

・構造と力―記号論を超えて
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教養主義は、学歴エリートたちの人気投票的側面があったとして、


ニューアカは教養主義の極限の姿を示してくれる。思えば、あれは確かに「虚名」の時代であった。「浅田彰」や「中沢新一」や「栗本慎一郎」は名前として歩き回っていた。さらに言えば、それは印刷された文字だったから、四方田とか丹生谷などの読みにくい苗字は有利だったような気がする。ハスミ先生には、本書もその慣習に従っているように、かならず本字が使用されねばならなかった

こうなると人気の先生に自分の著作を引用してもらい、友愛集団の仲間入りすることが、教養の商品化への第一歩としてとらえられるようになった、と著者は言う。

■教養のグロテスク

女性の教養という視点でのジェンダー論も最後に続く。教養の意義を相対化し、古典的教養論の価値を幾重にも疑う内容であった。

教養のグロテスクさというのはなんとなくわかる。それと似通ったグロテスクさを、、毎週ジムに通って肉体美を磨き上げるビジネスエリートだとか、社長仲間のゴルフツアーにも感じる。衣食足りた人たちがそれ以上を求めて競い合う何かという点では、ジム通いも、ゴルフも同じものなのではあるまいか。

だが、本当の教養の価値というのは、スノッブ集団のプロトコルではなくて、

・古典を知っているから深く味わえる作品があること
・古今東西を知ることで全体像を理解すること
・自分と無関係の他者に対する想像力を強化できること
・”ビジョン”に幅広い支持者層を得られること
・面白いユーモアを言えるネタ元

といったことにあるのではないだろうかと、私は考える。

一読して思うのは著者自身、批判の対象であるマルクス的な階級社会観から逃れられていないということ。この本自体が、グロテスクと批判する肥大化した教養主義の一端を担う一冊になってしまっていると思うのだが、その出口のないグロテスクさが読みどころなのでもある。


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Posted by daiya at 2005年12月04日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
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