2006年02月15日
お金に「正しさ」はあるのか
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貨幣に媒介されてあらゆるものが流通してしまう現代。芸術、学術、性愛、そして人間の生命でさえも値段が算出されて売り買いの対象になってしまう。この社会では「市場で取引の対象になり得ること」と「社会的に価値が認められていること」は密接に結びついている。売れないものは価値がないし、売れるものを作れない人間は半人前という扱いになる。
ビジネス社会では、市場で売れるものは良いものであり、儲かることは正しいことだと私たちはしばしば錯覚してしまう。この論理を敷衍すると市場において流通することが、社会的正義であることにもなる。戦争を推進する正義もしばしば、経済的下部構造の得失原理に突き動かされる。
この本では、貨幣の強い影響力についてマルクスの資本論の一節が引用されている。
「
物はそれ自身としては人間に対して外的なものである。したがってまた譲渡しうるものである。この譲渡が相互的であるためには、人間はただ暗黙の間に、かの譲渡さるべき物の私的所有者として、またまさにこのことによって、相互に相独立せる個人として、対することが必要であるだけである。だが、このような相互に分離している関係は、一つの自然発生的な共同体の成員にとっては存しない。それがいま家父長的家族の形態を取ろうと、古代インドの村やインカ国等々の形態をとろうと、同じことである。商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる(『資本論(一』))
」
貨幣経済は本来は共同体の境界での内外の取引に使われるものであった。だから、親密な家族関係においては物の売り買いは本来は存在しないはずだが、対外関係で発生した貨幣の強い影響力は共同体内部にさえも浸透していく。親子や恋人の間にも貨幣を媒介した物の流通が意識されるようになる。愛や恋にも値段がつけられる。
芸術や学術のように「すぐには金に換算できない」知的な営みの価値も、実際には「すぐには」がポイントなのだと著者は言う。すぐには換算できない価値も残っていてほしいと願うから人々はそれに投資するが、まったく貨幣に変換する見込みがゼロならば、そもそも社会的関心とならないだろうという。
表現者は現在の経済価値と無縁な「ものめずらしい」物を作り出そうとする。だが、市場経済では、多様な関心を持つ人間がいるので、そのものめずらしさに経済的価値を認める人たちがでてくる。いや、私はまったく稼ぐことに関心がないという表現者は、その実、余剰で生きていられる人なわけだ。食べないと死んでしまうわけだから。
結局、人間の営みはどうやっても貨幣価値から逃れることができないということになる。
すべてを飲み込んでしまう貨幣の魔力を著者は「ファンタスマゴリー」効果と呼んでいる。これは、人間が作り出した「商品」が逆に人間の振る舞いを支配するようになる現象を形容するための隠喩として、マルクスが資本論の中で使った言葉だ。語の由来は、物に光を当てたときにできる影を観客の前に大きく写す幻灯装置のことである。人間の欲望という光によって、貨幣の影絵はすべてを包み込む。
ファンタスマゴリーから逃れることができないのであれば、正義も貨幣を媒介して実現するしか方法はないのだと著者はお金と正しさの関係について結論している。ファンタスマゴリーを否定して「人間ひとりの命は地球より重い」というのは詭弁だともあとがきに書いている。
昨年賛否両論だった、「ホワイトバンド」キャンペンは貨幣と正しさについて考えさせられるいい機会だった。。
・ほっとけない 世界のまずしさ
http://www.hottokenai.jp/
この運動の背景にある営利企業サニーサイドアップは上手にファンタスマゴリーを正義と結びつけるころで儲ける、したたかな会社であるようだ。
・さて次の企画は
http://d.hatena.ne.jp/otokinoki/20050911
このほっとけない運動に対するアンチとしてこんなサイトもみつけた。
・ほっときたい 世界のまずしさ
http://www.hottokitai.jp/
・FrontPage - ホワイトバンドの問題点
http://whiteband.sakura.ne.jp/
実のところ、ホワイトバンド運動の本質はマネーなのかラブなのかよくわからない。
結局、貨幣もまた刃物と同じで、それを使うものの意図次第ということなのだろう。これは「会社は誰のものか」という本で「志の高い人のものであるべき」とした結論とも通じるものがあるなあとおもう。主語をテクノロジーと変えても同じことが言えるだろう。
・会社は誰のものか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003567.html
貨幣も会社も技術も、ネットワークを通じてファンタズマゴリーの効果で、自己増殖し、過去にないほどに大きな影響力を持つようになっている。「正しさ」を「神」にも「聖なるもの」にも依拠できなくなった現代。この本を読んでおもったのは、最も大切なのは、したたかに貨幣のファンタスマゴリーを利用して、公共性のあるビジョンを実現するリーダーであるような気がした。。
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Posted by daiya at 2006年02月15日 23:59 | TrackBack
衣食足りて礼節を知る。
のはずなのに、金の亡者と言われる人が、ほとんどの時代に現れますよね。
ちなみにファインマンは「ファインマン計算機科学」という本の中で、1980年代前半に光ファイバなどの情報洪水を予言し
「技術の世界は進歩するが、現実の文化は泥の中にすべっているような気がする」という名言を残しています。
映像加工、配信技術も上がり、修正かけ放題で、いくらでも美人ができる。いや萌えの世界になれば、二次元だから倫理規定がかからなければ、なんでもありという状況にもなるし。あ、でも声は自動化するのは難しいのか?
他にもブログとかで意見がたくさんありすぎて、誰を信じていいのかわからない気もするし。
>ファンタスマゴリーから逃れることができないのであれば、正義も貨幣を媒介して実現するしか方法はないのだと著者はお金と正しさの関係について結論している。
「ファンタスマゴリー」を空気や水と同じような客観的な存在として捕らえると確かにかそうなるのでしょうね。ただ「ファンタスマゴリー」が言葉と同様のコミュニケーションの為の人間の思考的産物であると考えればもう少し別の物の見方もできそうな気がします。
例えば、仏教における托鉢は、本来「僧は一切の物質的な生産を行わない」「身の養いへの施しに対して、精神的な施しを返す」「施される物は何であれ受け取る」と言う主旨で実施される物です。
もう少し身近な例で行けば、「肩たたき券などの」地域通貨とかも、価値をどう表現するかと言う部分に突っ込んだ解の一つだと思います。
後は、イスラムの世界では、金融の仕組みの中で利子を排除するような制度を取っています。これも「ファンタスマゴリー」の弊害を軽減する為の一つの知恵だと考えてもいいのかもしれないですね。