2005年03月07日

脳のなかの幽霊このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加


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・脳のなかの幽霊
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■脳の中の幽霊

切断された手足がまだあるかのように感じる「幻肢」現象は中世から知られていたが、長い間、患者の気のせい、思い込みに過ぎないとして軽く扱われてきた。ラマチャンドランはこの現象は脳内にある身体地図と関係があるのではないかと考えた。

幻肢の患者は顔の一部を触ると幻の手足に触られたと感じるケースがある。顔のどこを触ると手足のどこを触られたと感じるかを調べると一定していることがわかる。脳内の地図では手足と顔は近い部分に位置している。切断された手足に対応する地図上の手足が、近接する顔の部分と統合するように、間違った配線が行われてしまったのではないかと著者は考えた。

そして、脳にそうした後天的学習が可能なのであれば、脳を騙すことで、逆に幻の手足を消す学習も可能なのではないかと考え、鏡で幻の手足を見せる実験で、見事に幻肢を消すことに成功する。

他にも、脳梗塞の患者に見られる、視野の半分しか意識できなくなる「半側無視」、視力ゼロの人間が渡された手紙を無意識にポストの細い穴に投函できてしまう不思議な現象「盲視」、近親者を偽者だと主張する「カプグラ・シンドローム」など、さまざまな脳の障害事例が紹介される。

こうした例外、異常から、脳の仕組みの解明に迫ろうとする。

著者の研究実験は危険な脳の外科手術やfMRIのような大掛かりな観察装置を必要としないものが多い。綿棒や視力検査のようなパターンを描いた図を使って、脳や感覚の奇妙を発見してみせる。

視覚の盲点の話はとりわけ興味深かった。人間の目には盲点がある。この本に掲載された絵はそれを証明する。片目である一点を注視した状態で、視点を前後にずらしていくと、描かれているはずの点が見えなくなる。あるいは二つの途切れた線が、視野をずらすとつながって見える。本来、人間の目には盲点があってその部分の情報が不足してしまうが、脳はその部分を周囲の情報から勝手に補足してイメージを作り上げてしまう。だから、視野の中に真っ黒な盲点を私たちは感じることがないのだ。

想像妊娠も脳の中の幽霊が関係している。

1700年代に想像妊娠は200例に1例もあったそうだ。現代ではおよそ1万人に1人の珍しい症例である。これは過去には女性はこどもを産まねばならないという社会的圧力が強かったこと、妊娠を早い時期で確認する科学的方法がなかったこと、などが原因だという。想像妊娠は実際に生理が止まり、お腹が大きくなる人もいるそうだ。死産でしたと告げるとすぐに膨れたお腹はしぼんでしまうらしい。

脳の中の幽霊は私たちの認識に大きな影響を与えていることの一例である。この幽霊は現実と区別がつかない。正常な知覚とされているものも、結局は幽霊を見ているのかもしれないと思えてくる。

■クオリアの三法則

脳の配線や情報処理回路の究明を進めていくと意識に突き当たる。終盤のテーマはやはりクオリア(感覚質、こころにうかぶあらゆるもの)である。人間は環境情報に対して自動的に反応するだけの哲学的ゾンビではない。自由意志を持って、状況に柔軟に対応するには、ゾンビにはないこころが必要である。こころとはクオリアを扱うシステムである。

ラマチャンドランはこの本でクオリアの三法則を定義した。

「クオリアの三法則」

・入力側の変更不能性
赤いものは赤いものとして存在する

・短期記憶に保持
記憶(知覚)のバッファに「赤いもの」が短期間保持される

・出力側の融通性
赤いものから自由に自己は想起するものを選択できる

こころに浮かぶクオリアは、どこまでいっても私だけのもの(主観)である。第三者の記述という客観の古典科学とは根本から立場を異にする。第三者が赤についてどこまで詳細な記述(赤とは600ナノメートルの波長を発し...)を行ったとしても、クオリアの持ち主にとっての赤はそれ以上のものだ。

言葉で表現できない生の体験である一人称のクオリアと、それを三人称で記述した科学の記述は、常に平行線をたどる。そして脳科学の先端ではついに、三人称の記述を実在のすべてとする考え方では、前進できなくなってきた。

■主観と客観の統合

脳やこころを脳内の電気化学的反応や情報処理過程へ還元してしまうことに対して、さまざまな異論を持つ人も多い。こうした悲観主義はドーキンスの利己的な遺伝子「人間機械論」に対して「人間は機械ではない、それ以上のものだ」と反論する意見とパラレルにあると思う。ある種のラッダイト運動(産業革命時の反動、機械打ちこわし運動)のパターンだと思う。

ラマチャンドランはインド出身であり、主観と客観の統合に際してそうした批判のあることを理解している。最終章では次のような回答を提示する。


自分の人生が、希望も成功の喜びも大望も何もかもが、単にニューロンの活動から生じていると言われるのは、心が乱れることであるらしい。しかしそれは、誇りを傷つけるどころか、人間を高めるものだと私は思う。科学は------宇宙論や進化論、そしてとりわけ脳科学は------私たちに、人間は宇宙で特権的な地位を占めてなどいない、「世界を見つめる」非物質的な魂をもっているという観念は幻想にすぎないと告げている。自分は観察者などではなく、実は永遠に盛衰をくり返す宇宙の事象の一部であるといったん悟れば大きく解放される。

客観と主観を統合して自己は宇宙の事象の一部であることを知るという考え方は、インドや日本の東洋思想、悟りに通じる。脳とこころの間に壁などないというのが著者の持論だ。


精神と物質のあいだには高くそびえる分水嶺などまったくないと論じたい。もっとはっきり言えば、私は、この障壁は単なる見かけであり、言語の結果として生じるだけだと考えている。この種の障害は一つの言語を別の言語に翻訳するときにかならず生じる。

クオリアは科学ではない、主観の科学なんてナンセンスだ、と退けるのは簡単だ。けれども、脳科学は少しずつ脳と意識の間のミッシングリンクを掘り当てつつある。ふたつの言語の翻訳上の問題が解決されれば、クオリアをエンジニアリングできる日も私たちの生きている時代にくるのではないか。古典科学と新しい意識科学の間でせめぎあいが起きている。この中から何が飛び出してくるか、見極める証人になるのが私たちの世代であるような気がする。

これは、そんなスリリングな先端状況の渦中にある一冊だと思った。

#とても面白かった。紹介してくれたPICSY鈴木さん、ありがとう。

・脳のなかのワンダーランド
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002735.html

・マインド・ワイド・オープン―自らの脳を覗く
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002400.html

・脳の中の小さな神々
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001921.html

・脳内現象
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001847.html

・快楽の脳科学〜「いい気持ち」はどこから生まれるか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000897.html

・言語の脳科学―脳はどのようにことばを生みだすか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000718.html

・脳と仮想
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002238.html


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Posted by daiya at 2005年03月07日 23:59 | TrackBack このエントリーを含むはてなブックマークこのエントリーをはてなブックマークに追加
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Comments

はじめまして。taoと申します。
私もこの本読みました。
幻肢による感覚の異常を正すために、脳を騙して幻肢を消すなど、その内容には非常に驚きました。
幻肢の話題からはじまって最後には東洋や日本の思想にまで通じるのは興味深いですね。

Posted by: tao at 2005年03月08日 15:42

「主観の科学」で検索して拝見しました。
私は現行の日本語文法論が解決できずにいる基本的な問題を
主観という視点できわめて単純に説明しようという
個人的な研究を続けている者です。

要点を申し上げますと、主観と対象の対立が根底にあり、
無意識に近いところで主観と対象の主従関係が認識されている、
そして主観が主となれば「〜る」、従となれば「〜た」という
「活用語尾」が発話されるという文法理論です。

「主観の科学」に関連して、そうした仮説や観察事例があるでしょうか?

もしご存じでしたらご教授くださいますよう
お願い申し上げます。

Posted by: おきつ at 2006年08月27日 16:49
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