2005年02月24日
「弱者」とはだれか
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現代の日本において障害者、特定の地域(部落)出身者、高齢者、こども、性的マイノリティ、女性などは「弱者」として扱われる。外部の人間が、この「弱者」に言及するにはさまざまなタブーが存在する。マイノリティ以外の人間はその問題について語る資格がないかのように扱われる。
著者はそこには弱者の聖化という現象があるという。逆に、社会的に「弱者」として認定された人々自身はその問題について語る聖なる特権を得る。言論上、マイノリティとマジョリティの間で立場の逆転が起きる。マイノリティの権利は無条件に保護されなければならないことになったり、批判や必要な区別が許されないような雰囲気が形成されることがある、という現象だ。
その結果、「強者」は「弱者」が平凡なことを言っても拍手を送ったり、ハンディを考慮するにしても、できて当然の行為を賞賛したりする。著者はこれを両者の共犯関係がうみだす「情緒のファシズム」と呼び、相互理解の大きな障害となっていると指摘する。
この本は極めて語りにくいことについて、どう語るかの著者の挑戦である。マイノリティについてはっきり語ることで両者の本当の相互理解と問題解決ができる雰囲気を作るにはどうしたらよいかという問題についての本である。
「五体不満足」の明るさへの違和感、高齢者は皆寝たきり弱者と考える政策、優遇制度を濫用する確信犯「弱者」の存在、強者の自殺、誰も傷ついていないのにテレビの不適当な発言がありました謝罪、日本だけの「ちびくろサンボ」発禁事件、ミスコンは差別か。言いにくさをめぐる評論オンパレード。
著者は現代を過剰遠慮社会だと指摘している。解決策としてマイノリティと身近に長時間暮らすことで、大抵の差別や遠慮は自然に消えるとしている。多様な価値観を認めることで、弱者-強者の関係を流動化し、言いにくさの壁を取り払えという。すべての人が何らかの弱者でもあるということに気がつけということである。
この本のテーマは難しいと思う。「難しい問題だ」で片付けない著者は尊敬する。
「弱者」のハンディは一様ではないし、その程度を統一尺度で測ることは難しいと思う。同じハンディに苦しんでいる人もいれば、普通に生きている人もいるだろう。表面的には保護されたくないと表明していても、内面ではそれを望んでいる複雑な心境の立場もあるはずだ。だからマイノリティを保護する施策には、ある程度の冗長性をもたせる必要はあると思った。ただ、その按配がどこか狂っていることは、分かる気がする。
■ニートブームについて考える
ところでこの本を読みながら、ここでは触れられていない別のことを考えていた。最近メディアでたびたび取り上げられるニート(若年無業者)増加問題である。労働白書によると2003年時点でニートの数は53万人とされた。
そして今後の予測として次のような記事がある。
・NIKKEI NET:景気ウオッチ 増えるニート、成長率の抑制要因に
http://www.nikkei.co.jp/keiki/kataru/20041020c77ak000_20.html
「
では、日本のニート人口はどれぐらいか。国勢調査によれば、2000年のニート人口(15−34歳の非労働力人口のうち、通学と家事手伝いを除いた者)は75.1万人に達し、15−34歳人口全体の2.2%を占める(注)。95年調査の29.4万人と比べて2.6倍に膨らんだ(図表1参照)。試算によると、05年のニート人口は87.3万人(15−34歳人口比2.7%)となる。少子化が進み、この年代の人口が縮小する中にあっても、00年から12.2万人増加する計算だ。15年には100万人の大台を突破、20年には120.5万人(同4.8%)に達する見込みである。
」
この数字の算出方法にも大いに疑問が残るが、ここは認めるとして、
「
こうしたニートの増加は、日本経済の成長を抑制する要因になる。働く意欲を持たず、労働市場に参入しないニートの増加で、日本の潜在成長率にどれだけの下押し圧力がかかるかを検証してみよう。潜在成長率は、労働力、資本設備など生産活動に必要な要素をすべて使った場合に達成可能な成長率を示す。ニートの増加は、直接的には投入される労働量を減少させることによって、潜在成長率の下押し要因となる。また、労働投入量が減ると資本の投入量も影響を受けるため、ニートの増加は間接的に資本の投入量も押し下げる。 」
この検証方法はおかしいと思う。まず「労働力、資本設備など生産活動に必要な要素をすべて使った場合に達成可能な成長率」などという比較指標が現実的でないだろう。「日本という工場がフル稼働したらこれだけの達成可能な生産力がある」という意味だろうが、市場の需要という要請がなければ工場は稼働しないし、工場は稼動しても理論上最高の生産力はでないはずである。
日本という工場に対する市場の需要とはニートが働いた結果受け取る給料であり、消費であろう。でも、かじれる親のスネがあるうちは需要はない。スネを完食した後、明日の食べ物を買うお金に困ったニートは大半が働き始めるだろう。それでもなお清貧を貫いて、「働いたら負け」だと思う筋金入りのニートはたいしたものだ。拍手を送りたい。
結局、ニートはそれなりの資産を持つ親の世代の影に過ぎないと思う。
ニートは数の上ではマイノリティだし、定義からして社会的影響力を持たない層である。ふらふらしている人というのはいつの時代にも一定数いただろう。ふらふらの中で何かを見つける人も多い。最近ニートが目立つしても、それを養える親や社会が豊かになったということに過ぎないと考える。
「ボク、ニートなんですよう」と嬉々として主張する偽ニートも大勢みかける。よく聞いてみると、大抵は余裕のある失業者だったり、大学院生だったりする。彼らは本来は、モラトリアムを謳歌している、強者の一種と分類できるはずだ。明治時代なら高等遊民と呼ばれていたかもしれない。ダメ人間を演じている偽者は数多い。偽ニートがニートブームに拍車をかける。
だから、ニートはここまでメディアで話題にするほどの重要テーマとは私には思えないのだ。ニートは働かなくても生きていける強者だと思う。一方で働いても生きるのが難しい弱者がいるのだから。
マジョリティはニートについて語るのが好きなのだと思う。誰もがニートに対しては高い立場から評論できる。説教できる。擁護することもできる。とにかく言及することで優越感や自己愛を満足させる格好のネタだと思う。
「こういう若者が増えた日本の未来はどうなってしまうんだ?」と社会派を気取るのも知的な自分が心地よい。だが、影響力のある少数の人たちが国を滅ぼすことはあっても、逆はないだろう。「少年犯罪が増加して治安が悪くなった」という嘘と同じことではなかろうか。
本当の日本の問題はリーダーやエリートがその責任を果たさないことにこそあると思うのだが。
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Posted by daiya at 2005年02月24日 23:59 | TrackBack
「弱者とはだれか」の著者の勇気に拍手をおくります。
そもそもの間違いは悲惨な状態の「部落」を解放するための正義の戦いであたはずが、リーダー達が(主に元社会党)間違った解放運動を指導したことによって、歪みが大きくなった(逆差別あり)ように思っています。いまや、タブーがありすぎて、さまざまな分野で公平な議論さえも出来なくなっているのは嘆かわしいことです。
経済的に見れば、ニートの高等遊民説は当っていると思います。
でも夏目漱石が現状を知ったら、ニートの志の低いこと(あるいは欠如)に目をむくのではないでしょうか?