2005年01月31日
喪失と獲得―進化心理学から見た心と体
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何の本だろうかこれは?と最初は思った。
でも、とても面白い本だった。
人類はなぜいまのような性質を持っているのかについて、進化論の視点から、多様な考察を行った24編のエッセイ集である。数ページの軽いエッセイから、小論文と呼べる中篇まで形式は多様である。テーマも、言語と意識の誕生、憎悪と信仰、服従心理、病気と自然治癒能力、こどもの教育、政治、歴史と多岐にわたる。
だが、全体を通して一本芯が通っているので、通読することで著者の進化論の総体がパノラマとして浮かび上がる構造になっている。考えさせられることが多い。
■クオリアの私物化、感覚の進化、単一の自己
脳と意識の進化において「クオリアの私物化というプロセスがあるのではないかという。
クオリアとはこころに浮かぶ感覚のことである。この感覚には次の5つの性質があるとまず定義する。
1 所有者
感覚は主体に属している
2 身体的位置
感覚は常に指示的であり、特定の身体の部分を呼び覚ます
3 現在性
感覚は常に現在進行中で完結していない
4 質的様態
感覚はユニークで他の感覚と異なる
5 現象的即時性
私の痛みは私が今そうした感覚を能動的に作り出している
こうした感覚は、単純な原始生物では、苦い成分を嫌って逃げる単細胞生物のように、ごく局所的反応をはじまりとする。やがて、進化した生物ではそれが神経で受け取られて反応を返すようになり、さらに人間では脳が受け取って情報処理行って反応を返すように進化してきた。
感覚の進化:
第1段階 刺激の部位で起こる局所的な反応
第2段階 反応は入力感覚神経を標的とするようになる
第3段階 反応は脳内で私物化されるようになる
第3段階では、反応は脳内で完結することができるのが大きな違いだ。私たちは自分で想像した何かに反応することができる。好きな異性を思い浮かべてうっとりしたり、好物の食べ物を想像してハラヘッタと思う。脳とこころによって、感覚はバーチャルなものになる。
なぜ感覚の私物化がおきたのか。それは刺激に対して短絡的に反応を返すことが、その生物個体の生存にとって妥当でない状況になったからだと著者は述べる。高等動物の生きる環境は、特定の刺激に特定の反応を返していればよいという単純なものではないからだ。この変化のおかげで、人間は仮想でシミュレーションを行ったり、不快を我慢して結果を出すことができるようになる。
そして、この諸感覚を統合する機構として単一の自己が登場する。これに対して、多重人格という症例がある。著者はこの特殊な病に一章を割り当て、単一でありながら多重の自己がありえるのか、を厳密に思考で検証していく。
■自閉症の少女が描いた絵は古代人の心を解明する鍵になる
著者は3万年前の洞窟壁画と、現代の自閉症の少女が描いた絵のタッチに多くの共通点を発見する。本書で例示される絵を見比べるとそれは一目瞭然である。どちらも拙い線画でありながら対象の動物の躍動感をとらえる自然主義的リアリズムを備えている。現代の一般の人間が描く絵とはどこかが違う。異質さが感じられる。
一般的に、私たちが絵を描くときには、まず頭で対象を言語化している。たとえばウマを描こう思ってウマらしい絵を描く。”ウマらしい”というのは、ウマというカテゴリの表徴であり、言語理解が前提となっている。個別のウマを描く前にカテゴリのウマを描くのだ。
著者は古代人と自閉症の少女は言語能力を持たないが故に、この指示的で命名的な、言語表徴の性質を持たない絵を描くのではないかと立論する。そこには訓練を重ねて獲得されるような美術的技巧はひとつもない。遠近法だとか立体感を持たせる視覚的な騙しはなく、ただ目に見えたイメージを線で表しただけである。
知能は未発達ながら天才的な芸術能力を持つ、サヴァン(白痴の天才の意)症候群の患者が描く超写実主義的な絵とも、特徴が異なると著者は指摘する。サヴァン症候群で写真のような絵を描く画家たちは、成長の過程で必ず先生に絵を習っている。サヴァンもまた自閉症の一種を伴うが、彼らは後天的に絵の技巧を学習した結果、天才的な画才を手に入れている可能性が高い。
つまり、自閉症の少女の絵は、言語や技巧と無縁の、古代人の絵と同じものなのだと著者は結論する。もしこれが真実ならば、私たちは古代人の心や、脳と意識の進化の過程を解明する極めて有力な糸口を発見したことになる。
■超美人と大天才の数が少ない理由
目の覚めるような美人や大天才はなぜ数が少ないのか。
ダーウィン進化論が真実ならば、私たちは自然の淘汰圧を受けて最適化されている。長い年月の淘汰と突然変異に磨き上げられて、今の私たちは今の環境に対して最も最適化が済んでいる完璧な生き物に近いはずである。
美人の定義は文化的な影響による変遷もあるが、つまるところ、左右対称な顔であり身体であるとよく言われる。完璧な左右対称を妨げるのは、寄生虫や病気や怪我である。逆に言えば左右対称を維持している個体はそれだけ健康で強いのだ。進化の最先端にいる私たちはみな同じように強いはずでもある。だが美人は少ない。
実は美人はあまりに容易に異性を獲得できるために、その他の能力開発を怠る傾向があるのではないかと著者は仮説を提示する。肉体的魅力の欠如は、その他の能力を伸ばす原動力になっているという説だ。社会的成功者は、これまでの進化論的に言えば、美男美女で埋め尽くされてもおかしくない。だが、実際にはそうはなっていないことからも、この仮説はなんとなく正しいかもしれないと思える節がある。
大天才も数が少ない。知力が人間社会の生き残りに重要な能力であることは疑いがなく、天才の数はもっと多くても不思議ではない。だが、大半の人類はIQ100に達しない。平均点の付近に多くの人間が分布する。
いくつかの実験で、記憶力と抽象化能力はトレードオフの関係にあるという事実が証明されたと著者は事例を持ち出す。脳の容量が少なかった古代人は見たままを記憶する能力に長けていた可能性がある。だが、たくさんのものごとを束ねて覚える抽象化の能力を発達させたグループがいて、単純な記憶力を持つグループを凌駕したというのが著者のもうひとつの仮説。
つまり、飛びぬけた美貌と、突出した知力は、実は隠れたコストがあって、その所有者たちは必ずしも進化上の勝者ではない可能性がある、というのだ。これが正しいならば、健忘症で、不器量で、鈍くさい人類が本当は勝ち組である。
■プラシーボ効果による自然治癒力
病は気からという。東洋医学だけでなく、西洋医学も、患者本人の自然治癒力の助けがなければ、直る病気も治らない。医療の本質は、身体が自ら直ろうとする力を助けることだ。偽の薬でも効くと思えば免疫系が発動し、化学物質や外科治療の介在なしに、効いてしまう(プラシーボ効果)。
では、なぜ自然治癒能力は病気になったら毎回すぐに発動しないのか?。これは良く考えると不思議な話だ。たまに深刻な癌まで直せるケースもある一方で、大半の患者は死んでしまう。誰にもある力なのに、なぜ常には使われないのだろう。
プラシーボ効果は常に外部の人間やきっかけがスイッチをオンにする。他の誰かに騙してもらわないと発動しない。
著者はプラシーボ効果の発動要因を「個人的体験」、「合理的な推論」、「外部の権威」の3つだといい、これらによって病気は必ず治るという信念をでっちあげるプロセスが必要だ。個人的体験は病気が偶然、何かのきっかけで治ることだから、確率的に滅多に起こらない。合理的な推論も一人では難しい。既に知っていることから演繹すれば、奇跡を結論しにくい。結局のところ、3番目の外部の権威が本質だという。
自然治癒力には隠れたコストがあると著者は指摘する。免疫系を病気の初期に発動させることはコストとリスクが高いのだ。放っておけばやがて直る病気に、全力で取り組むのはスペックオーバーだし、せっかくの安静必須のシグナルである痛みや不快感を、そうすべきでない時期に取り除くのは、逆効果である。いつ発動させるのが良いかは自分では不明である。進化の過程で、免疫系を過度に自己コントロールさせないように、その発動スイッチを、他人に渡しておくことになったのではないかと著者は述べている。
そして、その説を進めていくと、著者はプラシーボ効果で病人を治す、信仰療法治療家やシャーマンや占い師にも有益な役割を見出しているようだ。学者として、これはちょっとユニークだ。
■隠れたコストと冗長な進化の戦略
一見美徳で有利とされる性質には隠れたコストがあって、人類進化の能力の獲得と喪失に重大な影響を与えている、というのがこの本を通しての一大テーマといえる。
進化上、稀に先祖がえりが起きるのは、過去に喪失した性質は完全に失われたものではなく隠れているからだ。本当は遺伝子の発現スイッチがオフにされているだけで、その性質は代々受け継がれており、進化の袋小路に陥った際に、戦略的退化を行う機構を構成している。
私たちの進化機構は冗長で複雑なので、能力が最大値を取るということは、実は環境に対して最適ではない。何らかの中庸的な値に抑えておいたほうが、進化上の有利を実現できるかもしれないというアイデアを著者は展開する。(やっと西洋人も中庸に気がついたか(笑)。)
著者の進化論は、まったく新しいものではない。これはリチャードドーキンスの利己的な遺伝子論に始まる、正統派モダンな進化論の延長線上にあるバリエーションである。この本のニコラス・ハンフリーはドーキンスの正当な後継者と言えそうだ。
ポストモダンな最新の進化論の場では、ドーキンスの意見に異論の声もあがっている。そうした批判の声に対して、ドーキンスの説をさらに推し進め、現代文化のディテールの解明にまで手をつけて、いやこういう説明が成り立つと反駁もする。ドーキンスは原理を打ち出し、ニコラス・ハンフリーはそれに肉付けをしている関係。最近の分子生物学や脳科学方面からの反論にすべて答えたというわけではない(相手にしていない?)が、分かりやすさではこの本はとてもよく書けている。面白いのだ。
前書きだかあとがきにもあったけれども、新書数冊分の内容が一冊に凝縮されている。上記のキーワードのどれかが琴線に触れた人にはとてもおすすめ。
・天才と分裂病の進化論
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001298.html
・気前の良い人類―「良い人」だけが生きのびることをめぐる科学
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002095.html
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Posted by daiya at 2005年01月31日 23:59 | TrackBack