2005年01月20日
ソシュールと言語学
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現代言語学の祖で、構造主義思想の祖でもあるソシュール入門書。
ソシュールとレヴィストロースは学生時代に夢中になって読んだ。当時、既に構造主義思想も古典だったわけだけれど、あれから10数年、今はどういう扱いになっているのかなというのが手に取った動機。
■ラングとパロール、シニフィアンとシニフィエ、体系と構造
第1章「ソシュールはこう考えた」はソシュールの言語学と構造主義のやさしい入門ガイド。分かっている人にとっては軽いおさらいだが、著者の見解も織り交ぜられている。
要約。
ソシュールは言語の本質とは何か、その構成最小単位は何かをまず考えた人である。言語行為をラングとパロールに分割し、言語学の対象をラングに限定することから、ソシュールの仕事は始まっている。
ラングとは同じ意味を話し手から聞き手に伝える仕組みのこと。同じ意味が伝達されるには、この言葉はこの意味を表すという社会的な約束が必要である。音声と意味の対応関係を知らない人は、外国人と同じで、聞いても意味が分からない。人類共通の単語と意味の対応リストなど存在しないわけで、音声と意味は本質的には無関係(恣意的な関係)だとする。
これに対して、パロールは具体的な意味の伝達に関わらない要素を指す。たとえば具体的に発声された音声などである。ラングは抽象的だったが、パロールは具体的で観察可能である。だが、パロールだけを見ていても、意味をみつけることができない。だから、言語研究はラングから手をつけるべきだとしたのがソシュールだった。
そしてラングが伝達する言葉は記号であり、記号はシニフィアン(表示部、意味するもの、知覚できる音や図形の集合)とシニフィエ(内容部、意味されるもの、事柄または事物の集合)の対であるとした。両者は別物であり、ある表示部が、ある意味と結びついているのは、ある時代の社会的な約束事でしかない。つまり、単語と意味は、本来は無関係で恣意的な結びつきでしかない、というのが第一原理「言語記号の恣意性」である。
第二原理「言語記号の線状性」とは、言葉とは単語が一列に並ぶことで意味を表すものだという原理。そして、その並び方に規則があり、伝達される意味はその規則を変えると変わってしまうということ。
二つの原理はあまりに当然のように思えるが、世界の言語すべてが普遍的に持っている性質として、はじめて見つけたのがソシュールだった。
そして、どの言語にも数万から数十万の単語があるが、ひとつとして完全に同じ意味を表す単語はないとソシュールは考えた。完全な同義語がないということは、あるひとつの単語の意味を決めるには他と違うということを考慮しないといけないことになる。つまり、言語には、単語の意味を他の単語との関係で決定する「体系」がある。
「体系」内の要素の価値(意味)を決める要素(単語)が線状に並べられて、形成される「構造」にソシュールは言語の本質を見出した。そして、この発見は、そうした体系と構造の性質が、言語だけでなく、婚姻関係や神話の物語構成、経済交換など、人類の文化に普遍的に認められるものであるということが分かり、構造主義の時代が到来した。
要約終わり。
■ソシュールに続いた直系の研究とソシュール礼賛
第2章「ソシュールの考えはどう継承されたか」では、音素に注目したプラハ学派、関係性を重視したコペンハーゲン学派などソシュール直後の継承者たちの研究が取り上げられる。
第3章で「花開くソシュール」は、ソシュールの考えの不足を補ったり、別のユニークな考えを持ち込んで、構造主義言語学を発展させた研究がいくつか紹介される。具体的言語事例を使って構造主義アプローチを実践したバンベニスト、コトバは経済的にできているという機能主義を提唱したマルチネなど。
マルチネは面白い。言葉は記憶や発話の負担が少ない方向に変化していくという機能主義は、言語を物理や経済的に考える仮説。「パーソナルコンピュータ」は長いので、使われているうちに発話しやすい「パソコン」になる。だが、短い言葉は同音異義語が重なって理解しずらくなったりするので、すべてが1文字とか2文字の単語になると脳の負担が増える。ふたつの経済性の均衡で言葉は変化していくという話など。
著者はソシュールは言語学を、疑いえない原理だけを基準に科学にしたとして高く評価している。
「その意味で構造主義の方法こそが、ソシュール以来の健全な科学的分析の伝統を受け継いできているものと確信します。コトバの本質を解明することを目的とする言語学で、構造主義の考え方がこれまでにもまして多くの研究者によって踏襲されていくことが、研究の結果を安心して受け入れることができる学問分野としての発展につながるのです。」
ソシュール絶賛の結論でこの本は終わる。
今、インターネット関連の研究の世界には情報系の人と言語系の人がいると思う。情報系で自然言語処理やセマンティックWebをやっている人は意外にソシュール言語学や構造主義を知らない気がする。コンピュータで言語を扱いやすくしたチョムスキーの言語学ばかりが取り上げられている気がするが、大元の哲学を知るにはソシュールから入るほうが得るものが多いのではないかとこの本で復習して、思った。
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Posted by daiya at 2005年01月20日 23:59 | TrackBack
橋本氏がこの文章で書かれていた文脈から考えると、最後の結論は、「チョムスキーから入る」ではなく「ソシュールから入る」の書き間違いではないでしょうか。
Posted by: sig_s at 2005年01月21日 09:55#私もsig sさんのコメントのとおりではないかと思ったんですが。
ともあれ、確かに橋本さんが仰るとおり、IT業界ではチョムスキーによく陽が当たっているような気がします。
私は大学時代丸山圭三郎先生の本にお世話になりましたが、そこで「シニフィアンとシニフィエ」と読んでいる時に、まさか自分がXMLの仕事に将来関わることになるとは思ってもいませんでした(笑)
当時あんまり社会生活上役に立つ勉強をしていた気はなかったんですが、何が役に立つのかはほんとにわからないもんです。
Posted by: mitarai at 2005年01月22日 07:30ご指摘のとおりタイプミスでした
修正しました。ありがとうございます。