2004年10月05日
禅的生活
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・禅的生活
禅僧が書いた悟りの解説本。
禅的な言葉が各章のサブタイトルになっている。無可無不可、一切唯心造、六不収、廓然無聖、応無所住而生其心、柳緑花紅真面目、一物不将来、日々是好日、随所作主立処皆真、平常是道、知足、安心立命、不風流処也風流。他にも何百語もこうした言葉が出てくる。
これらの言葉は仏教の長年の智恵が濃縮されている深遠な言葉だ。哲学的洞察としてだけでなく、自然科学や社会科学との接点もみつかる知恵も孕んでいる。長い歴史の中で、最も精神的に、知的に鍛えられた人たちが生み出した言葉は、短くても、とてつもない深さを持っている。
例えば「六不収」の六というのは人間の感覚のことで五感+第六感「色、声、香、味、触、法」である。それぞれを捉える感覚器官は「眼、耳、鼻、舌、身、意」。仏教ではこの順序で社会性が強いとされているそうだ。眼で見えるなら一目瞭然で皆が理解するけれども、匂いや味くらいになると共有が難しくなってくる。こうして捉えた情報は、識となる。すなわち「眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識」の六識。
これらの六つの感覚に収まりきらないというのが六不収の意味であり、六不収と出会うことが悟りへ一歩であるらしい。六識の奥には自我に執着したマナ識があり、さらに先にはアーラヤ識があると言う。著者によるとマナ識はフロイトの「潜在意識」、アーラヤ識はユングの集合無意識に相当すると言う。世界の西と東で別のアプローチをとりながら、同じようなコンセプトに集約しているのは興味深い。
逆に考えれば西洋が近代になって発見したものが、東洋では、その何百年以上も前から思想家にとって常識だったのだとも言える。近代自然科学は世界を外側から客観視することを教えているが、人間は結局はどう頑張っても内側から世界や自己をみつめることしかできない。禅の思想とは、内側から徹底的、究極的に考えた末に行き着く境地のことのようだ。
理屈っぽい禅の思想だが、理屈を否定するのが本質でもある。座禅による瞑想。これは世界をうすらぼんやり見ることの練習であると著者は言う。眼を閉じて意識を身体の各部位に分散させると、私たちは怒ったり泣いたり、激しい感情を抱くことができなくなる。
見るともなしに見る。うすらぼんやりと世界を見ることは、現象学派のいう「判断停止」、ギリシア哲学の「エポケー」と似ている。これが廓然無聖という状態である。感情も価値判断も停止して世界と静かに向き合うことから、六不収の法身に至る道が開けるという第一関門なわけだ。廓然無聖は言葉で表せないから「言語道断」とも言う。言語道断は「論外だ」ではなくて、本来はそういう意味だったのだ。
禅と言えば問答が連想される。有名な公案には「趙州の無字」というのが紹介されていた。「犬にも仏性はあるか?」という質問であり、趙州和尚はこれに「無」とだけ答えた。だが「有」か「無」か、どちらが正しいという話ではないようだ。数年間もこの公案を考えさせる禅寺もあるそうだが、「有」と答えて通過が許されることもあるという。禅は理屈っぽいように見えて、本当は論理が問題なのではなく、答えるものの境地の成熟度が問題ということだろうか。
悟りとは何か。著者はまだ悟りに至っていないと断った上で、読者と共に悟った人間には世界がどう見えるか、を説明してくれる。要約は大変難しいのだが、一言で言えばありのままの世界が生き生きと感じられて歓喜に包まれる気持ちになり、それが持続する状況であるようだ。
東西の宗教の法悦体験は同じかというと違うとも書かれている。キリスト教の法悦は神との究極的な合一感のことだが、禅は、それではまだ知覚できる「一」があるじゃないかと異議を唱える。禅が理想とするのはその一者さえも消し去った、絶対的一者という悟りの段階である。私は悟って無一物になったと自覚しているようでは悟っていないのだという。そこにはまだ無一物という知覚が残ってしまっているからだ。
正直、悟りについて完全には理解できない。いや、言語道断なのだから、文章では表せないものなのだろう。だから、禅問答のように平常の論理を突き破る対話や、身体をもフル動員した座禅と瞑想があり、それらを使って言葉ではたどりつけない究極的な脳の状態
=悟りを開こうとしているように理解した。
誰でも、我を忘れるくらい夢中になるか、究極的に追い込まれるような体験をした後で、突然、視野が広がることってあると思う。私も5年に一回くらいそうした体験をする。そうした小さな悟りの幾重も向こう側にあるものが、大きな悟りなのではないかと想像していたのだが、少し違ったのかもしれない。それはまだ小さな悟りに過ぎず、大きな悟りは別次元にあるようだ。
仏教は哲学であり、禅は身体と脳の一体となる思考行為なのだと思った。だとすれば「禅の悟り」を、特定宗教の妄想だとか、変性意識の一種と片付けてしまうのは勿体ない気もしてくる。実際、禅やヨーガ、東洋の精神世界に関心を持ち、体験する高名な学者や研究者もいる。彼らの天才的なひらめきは、こうした悟りのような精神状態と関係がある可能性もあるような気がする。
西洋科学で東洋の神秘を暴くのではなくて、東洋の神秘で西洋科学をあっと言わせる逆転の言語道断を期待したい。
ところで、この本に当たり前のように出てきた色即是空、空即是色。ちょっと辞書を引いてみた。
色即是空:
この世にあるすべてのもの(色)は、因と縁によって存在しているだけで、固有
の本質をもっていない(空)
空即是色:
宇宙の万物の真の姿は空であって、実体ではない。しかし、空とは、一方的にすべ
てを否定する虚無ではなく、知覚しているこの世の現象の姿こそが空である
たった8文字の漢字に含まれる実在論。禅、仏教は深い。
関連?:
・電子写経
http://www.honganji.net/syakyou/
これってキーボードで問題ないのでしょうか?いいのでしょうか?新しい写経。
パソコン写仏
http://www.ne.jp/asahi/bellbell/tobioda/
無敵会議の受賞に写仏がありましたが...。デジタルで本当にやっている方がいてすごい。
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Posted by daiya at 2004年10月05日 23:59 | TrackBack
いつも楽しく拝見させていただいております。
今日の記事を拝読して感じたことがありましたので、質問させて下さい。
橋本さんが紹介されている本の多くに、宗教、特に仏教に関する本が多いように思います。
私は宗教に興味をもてないのですが、何かしらの宗教に興味を持ったり信仰している人には興味があります。具体的には、宗教を信仰したり興味を引かれるきっかけに興味があります。
橋本さんは何がきっかけで、仏教や他の宗教に興味をお持ちになったのですか?差し支えない範囲でご教示いただければ幸いです。
私自身は、何か「これが私の宗教だ!」と言えるものがあれば楽だろうなぁと思う機会が2回ほどありました。街中で倒れて、運ばれた病院内で原因がわからず6時間ほどたらいまわしにされた上、緊急手術をした時と、身内が不幸な形で他界した時です。言い換えれば、死を身近に実感した瞬間に宗教があればなぁと感じました。
あの時ほど何かあれば、と思いましたが、残念ながらどの宗教もピンときませんでした。(入院中に、よくわからない新興宗教の勧誘を病院内で受けましたけど、その宗教のパンフレットの内容はいろんな宗教の寄せ集めで笑ってしまいました。)
もちろん、他界した身内のために普通にお葬式はしましたし、お墓も買いました。法事やお墓参りも彼岸・お盆と欠かしたことはありません。ただ、なんとなく形としてはやっているけど、なんだか腑に落ちません。誰の何のためにやっているのだろうかと。
話が冗長になってしまいましたが、宗教に興味をお持ちの方の「きっかけ」をなぞることで、自分にあった宗教を見つけられるのではないかと思っています。自分がまた「死」を身近に感じて、頼るべき宗教を探す時が来たときには参考にさせていただきたいと思います。(念のために申し仕上げますが、現在私は心身ともに健康です。まったく「死」を身近に感じていません。ただ、前回の自分の経験から、突然やってくることもありうると実感しています。)
もしよろしかったら、橋本さんの「きっかけ」を教えて下さい。宜しくお願いいたします。
hanakoさんこんにちは。
私もスタンスは似ています。
きっかけは「祈っている自分の発見」です。
私が育った家も私も無宗教であると同時に宗教全部入り状態でした。神棚と仏壇が同居していますしキリスト教系の幼稚園に通いました。小学校時代はイスラムの国で過ごしました。ただ家族の誰も信者というほど信じていません。そんなことすると罰が当たるよとか言われて、小さなころは宗教嫌いでした。
が、ある時期から自分や身内の好機や危機に際して祈っている自分を発見しました。何の神様に祈っているのかは分からないのですが、とりあえず祈っているのは確かだと。助けてくださいとか、うまくいきますようにとか、自然に念じているのです。我思う故に我ありではありませんが、我祈る故に神ありかも?と思ったのが宗教への興味の始まりでした。
私にとって宗教は知的好奇心の対象のひとつに過ぎません。かも?は消えません。数ある宗教の中で仏教に興味があるのは一番理屈っぽくて考えやすいからです。と、同時に身体性を意識しているからです。アタマとカラダの全体性には強く惹かれます。
ただ、特定の宗教の悟りを本当に開きたいとは思っていなかったりもします。基本的には教育の影響で、私は科学合理主義者だからです。悟った自分は今の私ではなくなってしまうでしょうから、実はあまり歓迎できません。
精神世界の宗教という意味とは別に文化、慣習としての宗教には大いに迎合しています。お葬式だとか法事、それに伴う儀式は悲しみを紛らわしたり、亡くなった人を定期的に思い出して残されたものが絆を深めるための、深い知恵なのだと思っています。
宗教に含まれる哲学も好きです。仏教の哲学は宗教的部分と切り離しても成り立つ部分が多いなと思います。科学を推し進めていくと最先端では仏教の提出していた世界の説明と同じものに行き着いたりする不思議もあるようです。
こうした面白さが分かってきて、子供時代に持っていた宗教への反発は消えて、今は逆にもっと知りたいなあと思って勉強中です。霊的なものの存在だとか現実への影響があるかどうかという問題については当面、判断停止しています。科学合理主義者の自分としては否定するのが妥当なのでしょうが、古今東西の最高の知性の持ち主たちの中に宗教を信じている人がいます。もっと探ってみないと否定できない理由です。
Posted by: daiya at 2004年10月06日 23:31橋本様
詳細なご回答をありがとうございました。
大変参考になりました。
自分のきっかけづくりの参考にさせていただきます。
橋本さんのきっかけは「祈っている自分の発見」で、仏教に惹かれる理由は「理屈っぽさと身体性」なんですね。なるほどなぁと、納得した次第です。四国遍路を信仰している人に「なぜ?」と聞いた時に、「救われるから。」と答えられたことがあります。仕事で思いっきり落ち込んだ時に、四国のお遍路さんに出て救われたとのことでした。特に奇跡的体験を得たのではないそうですが、とにかく救われたそうです。
また、宗教の格の部分と、慣習的な部分を分けて受け止められているスタンスに「それもありかなぁ。」と思いました。慣習の部分である「お盆にイエに死者が帰ってくる。」という表現は未だに腑に落ちませんし、お盆の準備が一苦労ですが、慣習の部として対応していきたいと思います。
理屈っぽさで思い出しましたが、社会学者の橋爪大三郎氏が『仏教の言説戦略』という著書で、仏教を分析しています。仏教の理屈っぽさに興味をひかれておられる方には、面白い本だと思います。私はあまりの理屈っぽさに途中で挫折してしまいましたけど、お薦めです。
ありがとうございました。
Posted by: hanako at 2004年10月07日 09:11はじめまして。
>アタマとカラダの全体性には強く惹かれます。
ご意見と同じく、全体性に仏教の魅力があると思います。体には脳と同じ程度の役割を持ち、活動している部分があると生活を通じて強く意識しております。
様々な体験の後で読んだ書物等で、その部位が示されており、私のケースでは惹かれるというよりは、異質な体験かと思っていた不安から開放され、納得したという経緯があります。
あらゆる神秘体験には時があるようですね。それは偶然ではなく出会うべくして出会うという他論も多くありますが、共感し自論ともなっております。貴殿は他のエントリーで科学と神秘について書いていらっしゃいますが、その中でドラッグについても研究した書物が記載されており、麻薬と人は出会うべくして出会うという映像作家の言葉も思い出しました。
他エントリーも楽しく拝見させていただきました。
Posted by: 丹 at 2004年12月11日 22:14