2004年03月11日
対称性人類学
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名著。現代思想に関心のある方は絶対のおすすめ。
コンピュータは0と1で考えると言うが、根源にあるのは2つの項目を操作する「二項操作」「二項論理」である。コンピュータを生み出した人類の思考も、同じ論理にもとづいているという考え方がある。例えば人類学者のレヴィストロースは、神話の研究の中で、世界中の神話の物語には共通する構造があることを発見した。良いことや悪いこと、悲しみや喜びの感情など、ふたつの対立する事柄を補い合うような隠れた数学的構造が、神話のストーリーを形作っているという説である。この構造は、神話だけでなく人間の文化に広くみつかり、隠れた構造に本質を求める構造主義哲学の端緒となった。
二項の関係は、対称か非対称である。数学や科学は非対称の世界である。あるものが存在すると言うことは、それは別のものではないということを意味する。現代人はアイデンティティを大切にする。アイデンティティもまた、自分が他のものではないという非対称の性質を帯びる。何かを所有すれば、それは他者のものではないことになる。動物と人間、人と神、男と女は違う。あるものはあるものを支配する。動かす。操作する。現代の世界は非対称の論理にあふれている。
神話の世界は、同じ二項操作を用いながら、逆の世界をつくりあげている。人間と動物の区別がなく、人と神が同じで、生と死の世界にも境界がない。単一の価値尺度はなく、すべては多元的、重層的な意味を持つ。それゆえ、神話は近代小説と比較すると、あまりに物語が突飛で、論理的矛盾を内に孕んでみえる。神話は科学とは異なる、対称性の論理で記述されてきたからだ。
科学や近代型宗教のなかった時代に世界を説明しようとしたのが神話であるならば、神話は最古の哲学であり、科学である。そこには人間のもうひとつの「野生の思考」を見出せると著者は考えた。著者はここに「対称性人類学」という名前を与え、二項操作の仕組みを見直すことで、古典的な構造主義を超えて、新しい世界観を開拓できるとした。
この本は、宗教学者、中沢新一が大学における講義をベースに出版した名著カイエソバージュシリーズの最終巻である。神話の構造、贈与と交換の経済、神という概念の成り立ち、権力と国家といった既刊で扱ってきたテーマを遂にひとつに統合し、思想や宗教が人類の未来にとってどのような意味を持ち得るかを考察した集大成である。
南米アマゾン流域のグアラニ族には<一>を悪とする哲学があるという。滅びうるすべてのものが<一>なのだという。私たち現代人はすべてに一方的にひとつの意味を与えようとする。三大宗教も唯一神の教えをもち、文化人は真・善・美のような一元的価値観を、社会にはりめぐらせることを良いことを考える。だが、この考え方の基底となる「Aは非Aではない」という当たり前の思想が、グアラニ族にとっては諸悪の根源である。それゆえ王も政府も国家も生まれることはなかった。彼らは野生の思考の実践者たちである。
近年の認知心理学や脳科学の進歩によって、無意識が意識を強く支配していることがわかっている。無意識にはまだ野生の思考である対称の論理が根強くいきづいている。それは、意識回路の壊れた分裂病患者の行動や思考を研究することでも実証される。生後間もない赤ん坊を観察しても分かる。夢もまた同じ。私たちは、無意識のレベルでは自己と他を区別していない。Aは非Aでもあり、部分は全体であり、過去は現在であり未来でもあると考えることができる。
贈与と交換に関する分析もある。現代の経済原理は等価の交換である。同じ価値のあるものを貨幣を使って交換しようとする。この交換は、持てるものと富むものを分けてしまう非対称の論理の典型であるとする。貨幣が仲立ちをすることで、人と人との絆も分離され、ものの価値は一元的な価値に還元される。こうして非対称の論理が加速することで、人類の世界は「進歩」をしてきたと同時に大きな矛盾を抱えつつある。これに対して「未開の」部族でみられるポトラッチのような、持てるものすべてを使い果たす贈与交換は、一元的価値を解体する行為である。またその行為自体からも多元的で流動的な意味が生まれる。現代の下部構造としての経済を超越した新しい経済の可能性を著者はここに模索する。
9.11事件が中沢新一にとっても対称性人類学を考える大きなきっかけであったらしい。近代宗教でありながら内に対称性の論理を秘めた仏教に関する考察や、近代に登場した「幸福」概念の批判などにも紙幅をとっている。背後には一元的価値観がもたらした政治、経済、社会の問題を危機意識として始まった研究ではあるようだ。だが、宗教学者、思想家らしく、それらの問題に対する直接的なコメントをするのではなく、敢えて、広い学問領域から、対称性、非対称性の持つ事例を集め、ひとつの哲学として結実させつつある。
中沢の本はほぼすべて読んでいるが、表現が文学的でそれが読者を限定している気もする。この本も、対称性の持つ豊かさと未来性を謳いあげた詩のようにも読める本である。精霊の王という傑作を出版した直後に、この本を続けて世に出せる思想家としての力量と意欲が、彼の活動において頂点に達しつつある気がする。次に何を語るのか目の離せない私の憧れの人。すべてが深い。いい。この濃い本の内容をうまく説明できたかわからないが、手放しの絶賛の意の書評。
・関連:同じ著者の「精霊の王」の過去に書いた書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000981.html
・関連:同じ著者のカイエソバージュ「神の発明」の過去に書いた書評
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000314.html
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Posted by daiya at 2004年03月11日 23:59 | TrackBack