前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48

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昨日のブログの続き。濱野智史氏の本。

AKBのコンサート帰りの勢いで、気鋭の若手社会学者が、その頭脳をもったいないくらいフル稼働させて、本気で書いてしまった過剰なアイドル宗教論。面白い。AKBのブームがあと何年続くかわからないのに書いてしまう思い切りのよさも好き。評価が定まる前に言わなきゃ本物の評論家じゃないのだから。

AKBとは、制服を着た少女を「推す」という関係性を根拠とした宗教であり、「サリンの代わりに握手券と投票券をばらまくオウム」であると見立てる。そして「比喩的にいうならば、AKBの総選挙は現代の「ゴルゴタの丘」であり、センターは「十字架のキリスト」なのだ。その彼女たちの壮絶なマジに感染するからこそ、私たちは彼女たちを「推す」のだ。AKBという宗教の信者、すなわちヲタになるのである。」という。

著者自身がファンのひとりとして、「レス」(メンバーと目線があうこと)、握手会の「良対応」「塩対応」、「賢者タイム」など、アイドルオタクの独特の生態、慣習をレポートする。ディティールが面白い。

一般人が知らない世界観や文化が確立されていて、現代アイドルには相当に奥深いものがあることがまずわかる。しかしさすがにキリストにたとえるのは言い過ぎでは?とおもったら記述があった。

「「関係の絶対性」においては、アンチがいるからこそスターが生まれる。キリストのような超越的存在が生まれる。いやもちろん、現時点ではキリスト教の規模を超えてはいない。しかし少なくとも、情報社会/ポスト近代という、匿名のアンチガ無数に蔓延るこの末法の世において、むしろアンチの存在をスルーするのでもなくブロックするのでもなく、正面から向きあうことによって誰よりも利他性と再帰性を帯びうることができるのが、AKBの「センター」なのだ。私たちはその「可能性の中心」こそを捕まえる必要がある。」

現代人は何にはまるのか、なぜはまるのかを考えさせらる本だった。

人間というのはそもそも何かに熱狂したがるようにできているのだと思う。極端で発散し、何かに依存して癒されるという性質があるのじゃないかと。しかし現代の日本社会はそれが許されない。宗教団体や政治団体は危ないから近寄らないようにしましょう、不偏不党で自分のアタマで考えることが大切ですと、子供を教育をしている。そうやって育つとおおっぴらに宗教や政治にはまれなくなる。そこへ、はまってよいモノとしてAKBという疑似的な宗教・政治システムが巧妙に設計された。抑圧されてきた若者たちが、それに狙い通りとびついているのが、今の状況なのではないかと思う。現代人の精神性の本質的な部分にかかわっているからこそ、濱野氏みたいにAKBに「可能性の中心」をみるのは意味があると思う。

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このページは、daiyaが2013年2月18日 23:59に書いたブログ記事です。

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