希望論―2010年代の文化と社会
二人の気鋭の社会学者が2010年代の日本と世界について熱く語り合った本。対談なので、結論を出すわけではないが、その分、読者が考えを深めるための材料がいっぱい見つかる内容だ。日頃、ネットカルチャーについてもやもやしていることを次々に明瞭に言語化し軽快に批評する。この二人はやはりすごい。
気になったところを引用してコメントしてみる。
「宇野 そう、現代におけるインターネットは拡張現実「的」なのだと思います。ここで言う拡張現実的なものとは現実と虚構の現在、現実の一部が虚構化することで拡張することです。それは言い換えれば日常と非日常の混在でもある。ソーシャルメディアの普及以降、バーチャルな空間に閉じた人間関係を探すほうが難しい。インターネットは現実のコミュニケーションを「拡張」する方向にしか作用していない。」
リアルとバーチャル、リアルとネットが相互に重ねあわされる時代ということなのだが、リアルがバーチャルに移行するとか垣根がなくなるというのではなく、重なり合って拡張するのだということ。このコンセプトは現代の多くのデジタル化、ネット化現象についての基本原理だと思う。
濱野さんが世代間格差の問題について触れた個所。
「濱野 そもそも震災復興の問題に限らず、日本はこの十数年、ずっとこのデジタルディバイドが日本社会における「希望」をスポイルしてきたと思うんです。ここで僕がデジタルディバイドと言うのは、要するに世代差です。日本では若いデジタルネイティヴ世代と置いたアナログネイティヴ世代の世代間対立がはげしく、これが日本社会の変化を妨げている。ある一定より上の世代は、インターネットなんてものはよく分からないオタク系の若者だけが使っている暇つぶしツールだろとレッテルを貼るばかりで、まともに扱おうとしない。」
ある一定より上の世代の人口ボリュームがかなり多いのが日本の問題なのだと思う。生き方を変えてもらうことは不可能だろう。いっそ日本を日本と新日本に世代で分断して、二つの国にしたら希望が湧いてきたりして。でも私とか微妙な年齢だからどうしようか。
「濱野 アメリカのフロンティア精神を体現しているインターネットをそのまま日本に輸入すれば、日本社会もアメリカのように変化するはずだ。だからそれが希望なんだという立場は、たしかに美しい話に聞こえる。しかし、残念ながら、こうした「技術が社会を変える」という議論は社会学的には「技術決定論」といって、あり得ない。なぜなら技術というのは社会の一部につねにすでに組み込まれているのであって、むしろ社会のあり方こそが技術の使われ方を決定していくからです。」
そうそう。この箇所、梅田望夫批判でもあるが、シリコンバレーをそのまま日本にもってきてもうまくいかないということ。外来植物の種を持ち込んでも、日本の土壌でうまく育つかという問題であると思う。いっそ土壌を入れ替えるという手もあるわけだが、結局、日本を動かしていくには、
「宇野 あとひとつ、2010年代のネットカルチャーに「希望」を見いだすとすれば、やはりそれは「政治」との回路をどうやって取り込んでいくのかが鍵になると思います。インターネット上をうろつく匿名集団が、ある種の「集合的無意識」として大衆の欲望を映し出すことで、わけの分からない奇妙奇天烈なネタがボコボコと生み出されてくる。2ちゃんねるやニコニコ動画は、そうしたネット的「生成力」の受け皿となってきた。それはそれでいいとして、問題はそうしたインターネット上の匿名的無意識が発揮する<文化的>なパワーを、どうやって<政治的>な回路に繋げ、これからの日本社会を変えていくための原動力に変換していくかだと思うんです。」
ということなのだろうな。
二人の議論は縦横無尽に飛んでいくが、ときどき希望というキーワードで収束する。新しいデジタル世代、ネット世代の側から、世の中を変えていこうと考えたときの現実的な視座を与えてくれる良書だ。
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