茶の本

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岡倉天心(覚三)が海外向けに英語で書きおろした"The Book of Tea"(1906)の日本語訳。日本の茶道は単に飲み方の洗練ではなく、高度に完成された美学体系であり、人生哲学であり、宗教とも呼べるものだと賛美する。

なぜ日本の茶道が世界に誇れるものなのか?天心はその理由をこう述べている。

「日本の茶の湯においてこそ始めて茶の理想の極点を見ることができるのである。1281年蒙古襲来に当たってわが国は首尾よくこれを撃退したために、シナ本国においては蛮族侵入のため不幸に断たれた宋の文化運動をわれわれは続行することができた。茶はわれわれにあっては飲む形式の理想化より以上のものとなった。今や茶は生の術に関する宗教である。」

日本の茶は、中国発祥の道教と禅道に発祥をみるが、それが日本に着床して独自に開花したものととらえている。

茶の道は自然であること、シンプルであるこを最上とする。ごてごてした西洋的な装飾美とは対極にあるものだ。敢えて英語で書いた茶の本で天心は西洋人たちに、この日本の美のあり方を挑戦的に訴えかける。「西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします」という一説もある。それだけ茶の完成度に自信を持っていたと思える。

「かくのごとくわが茶室の装飾法は、現今西洋に行われている装飾法、すなわち屋内がしばしば博物館に変わっているような装飾法とは趣を異にしていることがわかるだろう。装飾の単純、装飾法のしばしば変化するのになれている日本人の目には、絵画、彫刻、骨董品のおびただしい陳列で永久的に満たされている西洋の屋内は、単に俗な富を誇示しているに過ぎない感を与える。」

「鑑賞力」という言葉を天心は使っているのだが、茶の美は感じる側に洗練された感性や知識を必要とするわけで、派手なビジュアルで誰でもわかる西洋の芸術よりもよほど高尚なものなのだぞといいたいわけだ。その繊細な様式を具体的に語ってもいる。

「茶室においては重複の恐れが絶えずある。室の装飾に用いる種々な物は色彩意匠の重複しないように選ばなければならぬ。生花があれば草花の絵は許されぬ。丸い釜を用いれば水さしは角張っていなければならぬ。黒釉薬の茶わんは黒塗りの茶入れとともに用いてはならぬ。香炉や花瓶を床の間にすえるにも、その場所を二等分してはならないから、ちょうどそのまん中に置かぬように注意せねばならぬ。少しでも室内の単調の気味を破るために、床の間の柱は他の柱とは異なった材木を用いねばならぬ。」

西洋人は日本が高尚な文化を育んでいた時代は馬鹿にしていたが、富国強兵で西洋列強と並んだら、高く評価するようになったとして、要するに役に立つものは理解するが、高尚な文化を評価する素養がないのだと西洋人を叩く。ちょっと痛快。

千利休が秀吉に死を命じられて開いた最期の茶会の壮絶でこの本は締めくくられる。美に殉じる心というのも西洋人にはわかりにくい日本的感性かもしれないのだが、それを英語で書いてちゃんと発表していた。クールジャパンの伝道師の祖が岡倉天心だったのだなと思う。現代にもこういう人が必要。

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このページは、daiyaが2012年10月31日 23:59に書いたブログ記事です。

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