神隠しと日本人
異界研究の第一人者が、神隠しにまつわる神話や伝承、そして現実の神隠し事例を研究することで、日本の村社会における「神隠し」の役割と機能に迫る。意外に人間的で現実的なオチになる。
「民俗社会における「神隠し」とは何なのだろうか。極端な言い方をすれば、それは現実の世界での因果関係を無視して、失踪事件を「神隠し」のせいにしてしまうことなのである。村びとたちは自殺も、事故死も、誘拐も口減らしのための殺人も、身売りも、家出も、道に迷って山中をさまよったことや、ほんの数時間迷い子になったことまでも、「隠し神」のせいにしてしまおうとしていたのである。」
神隠しの多くが、事実を隠蔽するためのヴェールとして使われ、その真意は「失踪者はもう戻ってこないと諦めよ」ということを遠回しに伝えることにあった。辛い現実を突きつけられるよりも「神隠しにあったのだ」で失踪を異界へ放り投げたほうが、慰めになると人々が考えたわけである。
一方で失踪していた家出人が戻ってきた場合にも「神隠し」にあっていたという説明が用いられた。こういうときは、家出人を元の生活に戻してやるために、失踪中のことを敢えて聞かない救済手段の方便として神隠しが使われることもあったそうだ。
「「神隠し」とは、要するに、失踪時には、人隠しであると同時に、"こちら側"の現実隠しであり、帰村時には、失踪期間中の体験隠しであったということになるのだ。」
神隠しというのは日本人が編み出した社会的破綻への救済策なのだ。こういう方便は、今みたいなにっちもさっちもいかない人が多い時代には必要かもしれない。都市化やIT化が進んで、村がなくなり、すべてが可視化されてしまった現在、息苦しいと感じている人は多いはず。監視カメラだらけの現代では神隠しを演出するのは難しい。
まあ、今まだ有効というのは「原稿はほとんどできていたのにハードディスクが飛んじゃいました」というあたりだろうか。ハードディスクが飛んでしまったら、すべては許されざるを得ないし、それ以上責任追及するものでもないのである。優しい方便は今だって必要だと思う。神隠しみたいなロマンがないのは残念であるが。
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