汚穢と禁忌

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・汚穢と禁忌
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網野善彦の『日本の歴史をよみなおす』でケガレの文脈で触れられていた本。メアリ・ダグラス 1966年の刊。

多くの原始的宗教では聖性と不浄を明確に区別しない。聖の語源となるSacerというラテン語は神々とのかかわりにおける禁制を意味する言葉だあったそうで、聖なるものを隔離する、冒涜するという意味でも用いることができたそうだ。

日本語でもよごれとけがれを、同じ「汚れ」という字で書けるから、感性的にわかる気がする。子供の頃に、おまえ、バイ菌がうつるから近寄るなよ、やーいやーい、みたいないじめがあったが、あれなどはまさにケガレの禁忌の現代的な表れだろう。現代人の文化では表面上は聖性と不浄を別の系統としてわけているが、結構つながった部分が残っているというのがこの本の主張。

汚れとはそもそも何か。著者は「不浄もしくは汚物とは、ある体系を維持するためにはそこに包含してはならないものの謂いである。」と定義している。

動物の糞便や泥を清いとする宗教が例示されているが、農業中心の文化では、豊饒な土壌の中から価値が生まれてくるわけであり、体系の内側にあった。ところが現代文明では糞便とか泥は生産と関係がない。だから保健衛生的な意味だけで忌避されて、単なる不浄という扱いを受ける。

「汚穢とは孤絶した事象ではあり得ない。それは、諸観念の体系的秩序との関連においてしか生じ得ないのである。従って、他の文化における汚穢の法則にどのような解釈を与えても、それが断片的なものであれば必ず不毛に終わるであろう。なぜならば、汚穢の観念が唯一意味をもつのは、それが思考の全体的構造とのかかわりにおいてのみだから」

何が穢れていて、何が聖なるものか、は表面的な状態ではわからない。共有した文化の中で与えられてる意味に従っている。そうした相対性を教えてくれる本なのだが、文化の周縁としての穢れの重要な役割についても触れている。

「穢れはもともと精神の識別作用によって創られたものであり、秩序創出の副産物なのである。従ってそれは、識別作用の以前の状態に端を発し、識別作用の過程すべてを通して、すでにある秩序を脅かすという任務を担い、最後にすべてのものと区別し得ぬ本来の姿に立ちかえるのである。従って、無定形の混沌こそは、崩壊の象徴であるばかりでなく、始まりと成長の適切な象徴でもあるのだ。」

穢れや規格外をどうポジティブに取り込んでいけるか、包容力の高い文化は豊饒な文化になるということなのだろう。

・日本の歴史をよみなおす
http://www.ringolab.com/note/daiya/2012/02/post-1600.html

・聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-944.html

・図説 金枝篇
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-563.html

・聖と俗―宗教的なるものの本質について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2006/04/post-372.html

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このページは、daiyaが2012年4月11日 23:59に書いたブログ記事です。

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