「痴呆老人」は何を見ているか
ボケたらどうなるの?をとっかかりに、現代日本人の精神構造の変容を分析する本。
認知症では偽会話という独特のコミュニケーション形態が見られる。認知症の患者と介護者、あるいは患者同士で交わされるトンチンカンな会話のやりとりのことだ。意味不明のやりとりなのに、会話が和やかにできたことで患者は満足する。会話の内容を論理的に理解できなくても、情動レベルでは立派にコミュニケーションが成立している。認知症の老人にとっては、論理より雰囲気、情報より情動が生存にとって重要なものだからだと著者はいう。
認知症患者は「最小苦痛の原則」に従って、自分にとって痛みが最小になるように、虚構の現実を構成する。無関係の人を自分の夫や妻と思いこむことで、人間関係から自身を確認する。外界とのつながりを断念した人は、過去の記憶の世界につながりを求めようとする。人違いにもルールはあるのだ。
情動コミュニケーションが充足していると、知力低下があっても、幻覚、妄想、夜間せん妄などの症状がみられないという指摘がある。痴呆を病気と考えず正常な機能低下として扱う社会では、痴呆の老人は問題を起こすことなく生きていける。社会的実績のある人に敬意を払うのと同じように、認知能力が低下した老人に対しても敬意を払うというマナーがあるとよいそうだ。
痴呆を異常と扱う社会と正常と扱う社会。そもそも痴呆が問題になったのは、現代になってからのこと。現代日本人は、個が独立した思考・判断・行為主体であるという、欧米的な「アトム的自己」の視点にとらわれている点に、著者はその原因をみている。江戸時代までの日本では「つながりの自己」で生きていたとして、後半では痴呆が問題とされる背景としての日本人の精神構造の変容が論じれている。読み応えがあっておもしろい。
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