即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア

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・即興の解体/懐胎 演奏と演劇のアポリア
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即興芸術の本質とはなにか?。音楽のインプロビゼーション演奏と前衛演劇の表現を題材にしながら批評家 佐々木敦が「驚くべきことは、いかにして起こるのか?」を考え抜く。

優れた即興演奏は聴く者の期待を裏切ると同時に満足させる。音楽の約束事やありがちなパターンから自由でありつつも、音楽であることを止めてはいけない。演奏者と演奏者、そして演奏者と聴取者の想像力のせめぎあいの中から、即興は生まれてくる。それは「支離滅裂」や「破綻」や「台無し」とは違う定型なき形成だ。

「「即興」には常に「予測を予測する」というメタ的な審級がある。それはいわば「先読み」のひたすらな連鎖である。「演奏者」は「聴取者」の現前の認知によって、そのような「メタ予想」の交錯に巻き込まれざるを得なくなるし、逆に「聴取者」の方もまた、刻々と脳裏に浮かぶ自らの「予測」を「演奏者」がどこかで「予測」しつつ音を紡いでいることを忘れるわけにはいかない。こうして両者の「予測」と「メタ予測」(と「メタメタ予測」......)が激しいフィードバックを繰り返しながら、ある一度ごとの「インプロ」は生成されているのである。」

そもそも完全に自由な即興なんてあるのかという問題がある。表現者はあらかじめたくさんのイディオム、語彙を持っていて、適宜繰り出すだけではないのか?。実はイディオムの介在こそが非イディオムを可能ならしめるものなのだと著者はいう。

1)「イディオム」の編成/収斂を極力拒絶し、安定的な「構造」の成立を阻害しつつも、しかし「破綻」だけは回避し、広義の「構造」化への傾向性は担保すること

2)その場に存在する「他者」との応接、関わり合いを、一方的/根底的に反故にしないこと。

演奏=クリエイション、演奏=コミュニケーションという二つの制約条件に縛られながら、共同体の文法や言語体型、価値判断からの逃走と闘争を指向する。予定調和と思われないギリギリのラインでの破壊的創造が即興なのである。

即興やライブの魅力はデジタル複製コンテンツの時代にあって、むしろ希少性と言うか「本物」として価値は高まっていくものだと思う。

「演劇もダンスも僕が興味があるものって実は同じものなのかもしれなくて、それは要するに演劇もダンスも「今ここで一回しか起きない」っていう、「今ここ」っていうものに繋ぎ止められている。基本的には可能性の縮減の方だと思うんですよ。制限。今ここで起きた事をもう一回やってって言われても、もうそれって同じじゃないじゃんというのがあるわけじゃないですか。それがもう決定的で、そこの部分っていうのをどういう風に考えるかっていうのが、いわゆる複製芸術とかって言われるものとの違いだと思うんですよ。」

言語による即興の本質の解体は難しい。DVDや録画で後からでも見られるのにライブで見たいと思う心理は万人にある。それは即興ライブへの経験に基づく期待であり、即興の価値を証明することがいかに難しくても、それは必ず存在しているはずだ。

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このページは、daiyaが2011年8月21日 23:59に書いたブログ記事です。

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