国語教科書の中の「日本」
いやあ、おもしろいなあ、痛快だな。子ども時代からのもやもやがすっきりしていく。昔からそうだったよ、国語の教科書は。
著者は、小中学校の教科書を精査し、国語教育が「古き良き日本」ばかりを教える偏った道徳教育になっている実態を批判する。私の頃もそうだったがトップシェアの光村図書の教科書を中心に、そこは保守イデオロギーの塊なのだ。
「光村図書の『こくご 上』を読んでいたときのことだ。小学校に入学してはじめて手にする国語の教科書である。だから、「あいうえお」を学ぶことになる。それに例示されているものが気になったのだ。「あ」は「あめ・あり・あひる」、「い」は「いす・いるか・いのしし」、「う」は「うし・うみ・うちわ」、「え」は「えき・えほん・えんとつ」。いまの子供が「うちわ」や「えんとつ」にどれだけのリアリティーを感じるだろうか。しかし、もっとおかしいのは「おけ・おに・おの」。どれも「古い日本を象徴するものばかりなのである。」
「動物に関する教材」が多く、全体として「自然に帰ろう」で「都会生活の無視」は国語の教科書のパターンのひとつだそうだ。高学年になってくと保守イデオロギーは、どんどん顕著になっていく。いまだに母親は「かっぽう着を着て、白いてぬぐいをかぶっている母」のイメージがまかり通っており、戦争中や戦後は「物の豊かさ」はなかったが「心の豊かさ」はあったことになっている。そして「過去から現代、そして未来へと暮らしは変化していくが、人々の心は同じはずである」という「心」に関するメッセージ。
私の小学校時代の国語の記憶といえば井上靖の『しろばんば』だが、あれも田舎で昔はよかったという話だ。教科書に頻出する「少年時代の思い出」や「父親の不在」「田舎の生活」で典型的要素たっぷりの作品だった。
著者はこうした偏りを指摘するが、出版社の編集者や教科書の編集委員を批難するわけではない。「おそらく意識しないで「自然」な感覚で編集したらこうなってしまったことこそが大きな問題」だとしてイデオロギーの恐ろしさを指摘する。
相対化し、客観化し、批判的に見る能力を養うべきだというのが著者の教育への提案のようだ。曰く日本語に「正しい」も「美しい」もないし「乱れ」もない。基準がないのだから主観に過ぎない。「古き良き日本」の保守イデオロギーは教科書に浸透し、子供たちに偏ったパラダイムを植え付けるている。さらには受験勉強で求められる正解としての答えとして、思考回路に刷り込まれていき、多様な解釈の可能性を阻む。
国語に置いては「論理的思考力」もまた相対的なパラダイムのひとつに過ぎないという。
「「論理的思考力」は普遍的なものだと思い込むと、「あなたは論理的ですね」「あなたは論理的じゃあありませんね」という振り分けが必ず起こってくる。そうではないのだ。パラダイム・チェンジによって「論理も変わるということが理解されていれば、「あなたの言っていることはこういうパラダイムの中でならば論理的ですよ」という教育ができるはずだ。」
ここに著者の教育観の真髄がみえる。いろいろな道徳がある、いろいろな価値観がある、ということこそ教えるべきことだという意見に、天の邪鬼な子供だった私(今でもか)はものすごーく共鳴してしまうのである。
正解はひとつじゃないと教えるのが難しいという教育の現場の問題はきっとあるのだろうけれども。
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