マクルーハンの光景 メディア論がみえる [理想の教室]
マクルーハン生誕100周年だそうだ。ちょうどわかりやすい入門書がでていた。
3つの講義形式をとる。親切で落ちこぼれをつくらない授業だ。
マクルーハンの難解な『外心の呵責』の全文和訳を素で読んだあとに、著者による行レベルの丁寧な解説がつく第一講。専門家に横についてもらいながら、本物を体験できる感じで、安心して読める。
第2講ではマクルーハンの生涯と主な著作についての解説、そして「メディアはメッセージである」の解釈。第3講では「地球村」の概念の再検討と、その思想の芸術面への広がりについて語られる。
マクルーハンの思想の中心にあるのは「メディア=テクノロジー=人間の身体と精神の拡張」という考え方だ。その著作は、インターネットもケータイもなかった時代の執筆にも関わらず、現代に起きていることを予言していたかのようなことばで満ちている。
「文字文化以後の人間が利用する電子メディアは、世界を収縮させ、一個の部族すなわち村にする」「あらゆることは起こった瞬間にあらゆる人がそれを知り、それゆえにそこに参加する」。マクルーハンのいう地球村は、ツイッターであり、Facebookであり、「あらゆることは起こった瞬間にあらゆる人がそれを知り、それゆえに参加する」環境は現出している。」
マクルーハンの主張は、
(1)電子メディアの到来が「新しい環境」を生み出すこと。
(2)「新しい環境」の特徴とは「同時多発性」であること。
ということ。
マクルーハンの文章は文学的芸術的表現が多いので、著者によって骨子と、その核心に触れるさわりだけ抜き出して紹介してもらえるのがありがたい本だ。
個人的にはホットとクールについての正しい理解ができたのがよかった。
ホット・メディア:高精細度=低参加度(ラジオ・活字・写真・映画・講演)
クール・メディア:低精細度=高参加度(電話・話し言葉・漫画・テレビ・セミナー)
「メディアの伝える情報の密度が高いと、補完する必要がない。それを受け手の「参加度が低いと表現します(高精細度=低参加度)。これが「ホット・メディア」です。 逆にメディアの伝える情報の密度が低いと、受け手は、不足の情報を頭で考えて補完する必要がある。それを「参加度が高い」と表現します(低精細度=高参加度)。これが「クール・メディア」です。」
マクルーハンはアフォリズム(警句)は「不完全ゆえに奥深い参加を求める」クールメディアだと言ったそうだが、マクルーハンの著作自体が、豊饒な意味を内に秘めた究極のクールなメディアのように思える。
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