チェルノブイリの森―事故後20年の自然誌
ウクライナ系アメリカ人ジャーナリストによる長年のチェルノブイリ訪問取材をまとめた渾身のルポタージュ。ロシア、ウクライナ、ベラルーシにまたがる原発事故の地の意外な真の姿がわかる。
視覚的にはチェルノブイリは死の街などではない。
「ところが事故の十年後の1996年に初めてチェルノブイリ地区を訪れると、驚いたことに、いちばん目につく色は緑色だった。このときの取材記録を見ると、「原野」や「森」や「野生生物か!?」などの語句を下線で強調したり、丸で囲んだりした説明がびっしりと書きつらねられている。通説や想像とうらはらに、チェルノブイリの土地は独特の新しい生態系に生まれ変わっていたのだ。悲愴な予言などものともせず、ヨーロッパ最大の自然の聖域として息を吹き返し、野生の生物で満ちていた。動物は、思いもかけず魅力的な棲みかとなった森や草原や沼と同様に、放射性物質ですっかり汚染されている。しかも、誰もがあっけにとられたことに、繁栄してじもいるのだ。」
かつての原発周辺の地域には、ジブリ・アニメのナウシカの世界のような「不自然な自然」「意図せぬ自然公園」が広がっている。もともと森だった土地だけでなく、放棄された耕作地も、現在は森になっているのだ。車も少ないので空気も新鮮で、放射能汚染地帯と言う事実を知らなければ、素晴らしい自然環境にみえる。高レベルの汚染場所は、枝ぶりのおかしな松の木が生えている「赤い森」でわかる。放射性核種が木に固定された森では、火災が発生すると燃えて舞いあがり、汚染を拡げるので、現在は森林火災に注意をしているという。
高レベルの汚染地域では放射能によって枯れる植物はあるが奇形の動物はいない。遺伝子は丈夫にできているとか、遺伝子を破壊された個体は淘汰されるとか、放射線に強い個体が生き延びたという説がある。理由はともかく動物天国だ。そこらじゅうを野生化した家畜が走り回っている。イノシシに気をつけないといけない。
避難地区は無人ではなくて結構な数の「サマショール」と呼ばれる居住者がいる。元の暮らしを求めて戻ってきてしまった高齢の人たちだ。長期的な被曝の住民への影響はどんなものだったのか?。チェルノブイリ事故ではその影響で数千人が癌になったと考えられるが、同じ時期に癌は同じ地域で別の要因でも増えているために、二十年もたってから特定の癌を事故と関連づけることが難しく、影響はうやむやになっているのが現実だ。
ただひとついえるのは、当初の悲観的な予測ほど白血病や癌は増加しなかったらしいということ。事故直後の子供の甲状腺癌が増えた以外は、80万人を超える除染作業者でも増加がみられていないという。しきい値なし仮説の確率的影響は絶対値としては大きくなかったようなのだ。
もちろん不透明な部分は残される。こうした統計をややこしくする社会的要因がある。数十種類もある"チェルノブイリ手当"を受給するために、実際には作業をしていなかったのに、手当を要求する人が少なくないこと。実際にはそうではないのに、病気になったのは事故のせいだと思い込んでいる人も多いことなど。
要するに犠牲者の数は未だによくわからないのである。
この統計の誤差の向こうにうやむやにされる死者数というのは、日本の原発事故でも同じことが予想される。もともと日本の死因のトップが癌であり、全死因のおよそ3分の1を占めるといわれる。つまり原発事故がなくても33%は癌で死亡する。人口の高齢化が急速に進んでいるので、画期的な治療法が発明されない限り、ベースとしての癌の死亡率は数パーセントは増える。いや下手をすると数十パーセントは上昇するかもしれない。そんな中で原発の影響に起因する死者が1%とか2%増えたとしても、本人も医者も区別ができないのである。原因がわからなければ補償もされないだろう。低レベル放射線の長期被曝に対しては、自衛するしかないということかもしれない。
豊かな自然環境の描写、管理地域(ゾーン)に暮らす人々との交流と和やかな記述が続くが、常に人々は線量計をつけている。原発そのものは依然として強い放射線を出している。20年前に作った石棺は劣化し始めており、目下、新しい防護施設の工事中だという。
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