「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代
ソーシャルネットワークとコミュニケーション重視の時代の問題提起。
「家族や仲間の承認のみを求め、それ以外の人々の承認を求めないのは、多くの人間の賞賛を求める野心とは無縁な、ある意味で堅実な生き方のように思えるかもしれない。理解してくれる人が少しでもいればそれでいい、という思いも十分に理解できる。しかし、見知らぬ大勢の人々の承認など不要だとしても、自らの行為に価値があるのかないのか、正しいのか間違っているのかについて、身近な人間から承認されるか否かのみで判断し、それ以外の人々の判断を考慮しないとしたら、それはとても危険な考え方である。」
価値ある行為を行う、それに対して、他者から承認を受ける。この基本ルールでの人間の成長が難しくなってきている。価値観の多様化によって社会共通の価値観が崩れ、「価値ある行為」が限定的なものになってしまったことに原因がある、と著者はいう。だから現代人は、見知らぬ他者の承認を意識から排除して、身近な人々の言動ばかりを気にする。「価値ある行為」よりもコミュニケーション能力が重要で、内輪の空気を読むコミュニケーションに終始する「空虚な承認ゲーム」の時代になったと現代を定義している。
だから現代では「個人の自由」と「社会の承認」の葛藤ではなく、「個人の自由」と「身近な人間の承認」の葛藤がある。著者は、心の発達には3つの他者と承認があるという。
親和的他者 愛と信頼の関係にある他者
集団的他者 集団的役割関係にある他者
一般的他者 社会的関係にある他者一般の表象
子供はまず親による親和的他者の承認から価値を学び、やがて仲間や学校における集団的価値を学び、社会一般の価値を学んでいく。そして人間関係が広がるにつれて「一般的他者の視点」を身につけて成熟した社会人となる。三つの承認の相補的関係で人間は育ってきたのである。
「価値観の相対化という時代の波のなかで、多くの人が自己価値を確認する参照枠を失い、事故価値への直接的な他者の承認を渇望しはじめている。そして身近な人々の承認に拘泥したコミュニケーションを繰り返した結果、極度のストレスを抱えたり、その承認を獲得することができず、虚無感や抑うつ感に襲われている。」
この傾向には、ソーシャルネットワークの内側に閉じこもることが容易になっていることもあるだろう。インターネットは世界と向き合うこともできるが、逆に仲間内に閉じこもることもできる。親和的他者と集団的他者のレベルにひきこもり、空虚な承認ゲームで過ごすことが容易になっている。
多様化の時代でも「努力」「やさしさ」「勇気」「忍耐力」「ユーモア」、道徳的価値の普遍性はまだ共通了解として残されているから、そこらへんを足がかりに一般的他者の視点へと至る道が重要、と提言している。
そうだなあと思う反面で、しかし、この問題、あまり心配するようなことではないのかもしれないとも思う。優しい関係を大切にするようになったことは悪いことではないし、これに対する反動が昨今の若手の社会起業家活動の背景にあるようにも思える。
若者の価値観の多様化と普遍的価値観の喪失を嘆くのは、自分たちの声が届かなくなることに対する古い権威たちの嘆きだともいえるだろう。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 「認められたい」の正体 ― 承認不安の時代
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.ringolab.com/mt/mt-tb.cgi/3213