復興計画 - 幕末・明治の大火から阪神・淡路大震災まで
元の状態のもどすのが復旧、新たな質と水準を加えるのが復興。
「東京の銀座、新宿二丁目、大阪の北新地、横浜の関内、函館西部の坂道、川越や高岡の蔵のまちなどは明治・大正期に復興計画が実施されていた場所であると指摘されると、本当ですか、と反応する人が多いに違いない。城崎温泉、山中温泉はいったん壊滅し、復興計画で現在の情緒ある姿が再生されたこと、静岡大火、鳥取大火の復興計画があった事実さえ、地元を除けば、まったく知られていない。戦災復興事業が仙台のケヤキ並木道、広島の河岸緑地をはじめとして全国各地ですばらしい成果を生んだことは、一部の都市を除いて、郷土史、学校教育、市立博物館でもほとんど取り上げられていない。」
忘れられやすい復興の歴史を振り返り、その復興計画が日本の都市をどのように変えてきたかを明らかにする。
幕末・明治の大火復興
関東大震災と帝都復興 戦災復興院(省と同格)による 後藤新平の活躍
1930年代の各地大火の復興
第二次大戦戦災の復興
阪神淡路大震災の復興
などが各一章を割かれている。
災害や戦災によって都市が破壊されたときに、平時では合意できなかった効率的で安全な街づくりが可能になる。たとえば関東大震災後の帝都復興事業では、消失区域の約9割に相当する区域で区画整理が行われた。危険な木造密集地域を整理し、大通りを通し、駅前広場を整備し、緑地や公園を配置することができた。繁栄する国際都市東京のレイアウトはこの時期にいっきに近代化した。。
「当初計画より縮小されたとはいえ、戦災復興事業は1600年前後に建設された我が国の近世城下町、宿場町の都市形態を一新し、戦後の高度成長を支える中心市街地のインフラをつくりあげた。日本の歴史の中で、全国一斉に都市が計画的に建設されたのは、安土桃山・江戸初期の城下町建設とこの戦災復興事業の二度のみである。」
こうしてつくられた景観は今や歴史的な重みも感じられる場所になっている。復興によって、よりよいものになりうる。著者はこうした復興計画は大変重要だが、その計画を示すのは、災害後、早い方がいいと提言している。
「災害復興に際しては、まず、都市計画と住宅に絞ってビジョンと方針を早急に、一か月以内に、荒削りであっても素案の形で公表し、それと同時に、建築制限を行い、住民の理解、議会と世論の反応を踏まえながら成案としていくやり方が望ましかった。」
たとえば関東大震災の翌日に、後藤新平は内務大臣として、東京復興の基本方針を発表し、矢継ぎ早に手を打つことで、成果をあげた。まだ復興の話なんて早いというのは、間違いかもしれないのである。
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