苦役列車
第144回芥川賞受賞作品。
中卒フリーターが港湾労働者として日雇い仕事に従事する鬱々とした日々を淡々と描いた。金も女も友もなく日給5500円稼いでは怠惰に暮らす主人公は、かなりの部分が著者の分身らしい。しかし蟹工船、女工哀史的なプロレタリアート文学とは趣が違う。この人は格差社会の犠牲者というよりは向上心に欠ける典型的なダメ人間である。そのダメ人間の、時代錯誤文体による自虐コメディというのが、この作品の本質だろうか。
西村賢太は藤澤清造という大正時代の作家に心酔していて、プロフィールにも「藤澤清造全集」の刊行を準備中とある。『苦役列車』でも野間文芸賞受賞の『暗渠の宿』でも、主人公が藤澤清造研究に執着するシーンが書かれている。この藤澤という作家は小卒(西村は中卒)で、貧困にあえぎながら貧困小説を書いていた。文壇ではずっと不遇で昭和の初めに性病で倒れて冬の芝公園で野たれ死んだ、という知る人ぞ知る存在である。風俗が好きで貧乏暮しの西村自身と共通点が多いようだ(でも、西村氏は芥川賞作家になってしまったが...。)。
この作品は古臭い言い回しの混じる独特の文体が読んでいてなんとも可笑しい。同時収録作品も『落ちぶれて袖に涙のふりかかる』だし...それこそ大正時代の藤澤清造らの文学の影響を受けているものなのかもしれない。鬱な描写が多いのに、重たくならずに読めるのは、この時代錯誤感覚というユーモアセンスが大きいと思う。
そして、この人の最大のウリは、劣等感から生まれる創造性であり、負け犬根性から生まれる諧謔精神だ。たとえば『暗渠の宿』では、もてなかった主人公がやっとのことで彼女を得るのだが、その彼女の元彼のことが気になって仕方がない。
「それを思うと、ふいと私は、不当にその男の後塵を拝しているような、えも云われぬたまらない口惜しさを覚えてくる。それに何よりその男は、うまうまと私の女の処女を破ったのである。そして私の女の、一番輝いている時期の心を独占し、一番みずみずしい時期の肉体を隅々まで占有し、交際期間から併せて都合七、八年もそれらを堪能して、さんざおいしい思いをし続けたのちに、これを弊履のごとく捨てたのである。そしてその男にしてみれば充分貪り尽くしたと云えるこの女を、私は、私に与えられた最後の砦として、随喜の涙を流して抱きしめているのである。その図を考えたとき、ただでさえインフェリオリティーコンプレックスの狂人レベルな私にしてみれば、およそ男としての根幹的な部分からわき上がってくる云いようのない屈辱感に、血が頭に熱く逆流してくる」
自らの惨めな境遇を徹底的に言語化する競技なんていうものがあったら、この作家はオリンピック級である。その過激な自虐ぶりが常人の同情とかを寄せ付けないレベルにまで高められていて、読者はもはや笑うしかないのである。
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