しろばんば
大正時代のはじめの静岡県伊豆湯ヶ島、主人公の洪作(5歳)は父母と離れて、おぬい婆さんと一緒に土蔵で暮らしている。曾祖父の妾だったおぬい婆さんは、本家の一族から距離を置かれている。人質にとられたような立場でありながら、自分に盲目的な愛情を注いでくれるおぬいに、洪作はすっかりなついて穏やかな日々を暮らす。複雑な人間関係に翻弄されながらも、いくつもの事件を乗り越えて、幼児から少年へと成長していく洪作の姿を描く文庫で580ページの長編。
舞台となる村は日本の原風景そのもの。
「十四日は"どんどん焼き"の日であった。どんどん焼きは昔から子供たちの受け持つ正月の仕事になっていたので、この朝は洪作と幸夫が下級生たちを指揮した。子供たちは手分けして旧道に沿っている家々を廻り、そこのお飾りを集めた。本当は七日にお飾りを集める昔からのしきたりであったが、この頃はそれを焼くどんどん焼きの当日に集めていた。橙を抜き取ってお飾りだけを寄越す家もあれば、橙は勿論、串柿までつけて渡してくれる家もあった。」
私の小学校時代に『しろばんば』(井上靖)は教科書に登場した。どんどん焼き、あき子の習字、「少年老い易く学成り難し」、小鳥の罠とひよどりの屍体。なぜか私はこの文章が好きで暗唱できるまで何度も読んだ。日本語のリズムのお手本のような文体が好きだった。学校時代、教科書で暗唱できたのは後にも先にもこの作品だけだった。教材になったのは、この長い物語の後半のほんの一節に過ぎない。いつかこの作品の全体を読んでみたいと思い続けて30年、ついに読んだ。
期待を上回る、味わい深い傑作で感動した。複雑な大人の事情を飲み込めずにいた少年が、少しずつ分別を得て、自分や世の中を理解していく過程を丁寧に描いている。中年になってから読んだのは正解だった。少年時代のへの憧憬、郷愁が大事な主題となっている。中学生や高校生で読んでもよくわからなかったはず。
洪作を取り巻くムラ社会では、濃い人間関係が育まれているから、現代のように軽々しくコミュニケーションを省略することができない。互いの視線によって守られていると同時に、がんじがらめに縛られてもいる。そこから抜け出していくところで本作は終わるのだが、その後の成長を描いた作品として「夏草冬濤」「北の海」がある、と知った。読み進めてみよう。
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