悪魔祓い
ノーベル賞作家ル・クレジオが書いた現代文明批判。いろいろと読み方がありそうだが私は芸術論として読んだ。
著者は20代で研究者としてインディオ集落で数年間生活して、その土着の宇宙観に魅了された。悪魔祓いとはインディオにとっては医療行為であると同時に、歌や踊り、刺青や木像などの芸術的な表現を伴う営為である。ル・クレジオは芸術のための芸術がはびこるヨーロッパ文明と比べて、これこそ本物の芸術なのだと礼賛する。
インディオは個人的な創造を拒む。個人の創造として作品をつくる欧米の芸術家と対照的だ。「芸術は沢山だ。個人の表現はもうたくさんだ。そうではなくて、結ばれあうこと、そして共同して読むということ」と芸術のあるべき姿を追い求める。
「インディオたちは人生を表現しない。彼らには事件を分析する必要がない。反対に、彼らは神秘の表徴を生き、記された後をたどり、呪術が与える指示にしたがって、語り、食べ、愛しあい、結婚する。要するに芸術、それこそ本当の芸術と言えるもので、それは世界を前にしての個人の惨めな問いかけなどではない。芸術とは人間の集団がいだいた宇宙についての印象であり、細胞の一つ一つと全体とのつながりであるがゆえに、それは芸術なのだ。」
人間の体験は宇宙の体験に含まれているという。欧米の芸術家は常に他人のやっていない独創表現を探しているが、インディオの呪術的な世界観はそんなちっぽけな個人的創造を超越する。宇宙の神秘を、生活行為、儀式の中で、共同的によみがえらせる。
「インディオは世界を組織する。彼は伝統的な表徴に従ってしか姿を表わさないのである。現実主義がなにになろうか。インディオは、現実というものに関心がない。これに反し、この現実というものは、わたしたちを窒息させているのだ。」
他人を感動させる作品が自分にしか理解できない独創ではありえない。人生や生活に根差した感情や経験にもとづかなければ深い感動を与えることはできない。表現のための表現としての薄っぺらなアートと違って、インディオの土着文化にはすべてがある、という。
日本の岡本太郎も、芸術は人間や宇宙の根源的エネルギーの爆発だと言って、縄文土器の美を礼賛したが、デジタル・バーチャルの時代にこそ、こういう「土俗力」は「本物」として再認識されるものだなあと思う。
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