金毘羅
文体が面白くて一気読み。
「一九五六年三月十六日深夜、私は仮死状態で生まれました。産声を挙げたのは次の日の朝でした。しかしそういう言い方だけだと判らない事実が実は、そこに隠れていました。正確に言うと、───。 一九五六年三月十六日深夜ひとりの赤ん坊が生まれてすぐ死にました。その死体に私は宿りました。自分でも判らない衝動からです。というか神の御心のままに、そうしたのです。」
神憑り電波系中年女性による独白長編小説。
登場人物は"私"だけ。本当は人間ではなくて"金毘羅"なのに、人間世界に降りてきたせいで、幼少より生きづらい生を送ってきたことへの恨みつらみ、そして自分の真の霊的正体を知った時のカタルシスを延々と語る。そうした事実をを知ることがない世間の人々への高笑い。偶然や幻覚を神意と結び付けて、超恣意的な世界認識を構築して、その中にひきこもる女がいる。
熱っぽい一人語りの地の文が独特で、なんじゃこりゃあと思いつつも、よいテンポで序盤を読まされてしまう。
一見すると、現実の生きづらさからの逃避として、宗教知識を使った内面的な辻褄合わせをしているだけのようにも思える。金毘羅、象頭山、大国主、大物主、少彦名、サルタヒコ、アメノウズメ...少し歪曲されながら、日本のカミサマ論が延々と展開されている。その宗教知識の披露をよく読んでいくと、思いがけない深みにはまっていくのがこの作品の後半の魅力。
この本は、ある程度、日本の神道と仏教の歴史について予備知識を得てから読んだ方が面白い。そういう身勝手で恣意的な宗教意識が、実は日本人の伝統的な宗教意識そのものなのだということが見えてくる。土着の宗教と仏教を同一視する「神仏習合」や、日本のカミサマと仏の化身を対応させる「本地垂迹」など、身勝手な私の辻褄思考は、日本人の宗教思考とおもいっきり重なっている。
「我は神、我は幸い、その名は金毘羅、我執をも叶える、鰐と翼の神」
結局、この電波女は日本の宗教が必然的に生み出してしまうモンスターなのである。
第16回伊藤整文学賞受賞作品
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