「世間体」の構造 社会心理史への試み

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・「世間体」の構造 社会心理史への試み
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社会心理学者井上忠司による1977年出版の古い本。阿部謹也らが「世間」論の火をつけたのは90年代だから、かなり先駆けて日本人特有の行動原理を論じていたことになる。「世間」論は2000年代に入って「空気」論と一緒になって再燃している。狭い国土と民族の同質性の高さがある限り、日本人は世間というものをずっと気にしていかざるをえないのかもしれない。

世間体とは「世間」に対する「対面・体裁」のこと。世間は極端を嫌う。なにごとも世間一般の例を基準にして「世間なみ」にしていれば、はずかしい思いをしなくてすむ。やりすぎると「世間ばなれ」「世間知らず」の変わり者扱いされる。

「この「世間なみ」に生きようとがんばるエネルギーが、わが国の近代化のひとつの精神的な原動力となってきたといっても、けっして過言ではあるまい。その反面、異端のもつ大胆なエネルギーが発揮されることは、きわめてまれであった。」

世間体とは恥の文化であり、人々は子供のころから、世間の人々に笑われないようにする「笑いの教育」を教え込まれる。世間に準拠してはずかしくない行動とは何かをすりこまれる。西欧では神の目が人々の行動を律した。神の意にはずれることは「罪」意識につながった。日本では世間の目と恥が人々の行動を律してきたという。

「いうまでもなく、西欧の人間観は、個人の<自律性>ないしは<自立性>に、たかい価値がおかれてきた。自己を内がわから律することができる<自律的人間>に、たかい価値がおかれているのである。それにたいして、他者の思惑によって自己の行動を律するような<他律的人間>の価値は、たいそうひくいものとみなされている。かれらのあいだでは、「罪の文化」よりも、「恥の文化」が劣るとされている理由である。」

日本人は、他者から見てほしい自己像と実際にに見られている(と感じている)自己像とが、たえずくいちがいやすい社会構造の基盤のうえに生きていると著者は指摘している。社会全体のモラルの高さと個人の自由な生き方は、トレードオフにならざるをえないということか。

「世間体」をおもんぱかって生きてきた人々の、<生活の知恵>からうまれた「笑いの教育」が、主体性の欠如という観点からのみとらえられるとすれば、その考察は、あまりに一面的にすぎるものといわなければならない。「世間教育」と同様に、ただ封建的なものとして一掃してしまってはならないなにものかが、この「笑いの教育」にはひそんでいるのである」

世間を(70年代においてですが)再評価する本だった。それから30年たったけど、かわらない部分もある。

・「空気」と「世間」
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1117.html

・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html

・タテ社会の人間関係 ― 単一社会の理論
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/02/post-702.html

・世間の目
http://www.ringolab.com/note/daiya/2004/08/post-131.html

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このページは、daiyaが2010年6月29日 23:59に書いたブログ記事です。

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