知性について 他四篇
ショーペンハウエルによれば知性とは普遍的な事柄の認識能力である。知識欲が普遍へ向かうと学究心と呼ばれ、個別へ向かえば好奇心になる。個別への関心は動物でもあるが、普遍をとらえるのは人間だけである。だからその普遍度が哲学や芸術のように高ければ高いほど知的レベルが高い、とする。逆に知性が欲望を満たすことや実践的な物事の処理に奉仕するのは、低レベルな知性だという。
そして世の中を大多数の凡人と、一握りの天才にわける。
「大多数の人間は、その本性上、飲食と性交以外の何事にも真剣になれないという性質をもっている。この連中は、希有の崇高な資質の持ち主が、宗教や学問や芸術の形で世の中にもたらしてきたすべてのものを、たいていは自分の仮面として用いて、ただちに彼らの低級な目的のための道具として利用することになる。」
つまりショウペンハウエルに言わせれば"プロ"や"MBA"は知性のうちに入らない。ただの"学者"も失格扱い。そういう世俗で役立つことに役立っちゃうようではまだまだレベルが低いのだ。本書の天才は1億人に1人という記述もあったくらいで、著者の志はとてつもなく高い。
じゃあ、どうやったら天才に近づけるのか?。それは世俗との断絶だと答えている。
「独創的で非凡な、場合によっては不朽であるような思想を抱くためには、しばらくの間世間と事物とに対して全然没交渉になり、その結果、ごくありふれた物事や出来事さえも、まったく新しい未知の姿で現れてくるというようにすれば、それで足りるのである。というのは、まさにこのことによって、それらの物事の真の本質が開示されるからである。しかしながら、ここで求められる条件は、困難であるどころか、決してわれわれの自由にならないものなのであり、ほかでもなく、天才のはたらきなのである。」
誰からも教わることなく、自らうみだした知識を人類に教えるのが、そうした天才の役割だと説く。凡人の知性は日常にしばられているから、解放しないとだめなのだ。どんだけ高みを目指しているんだあんたはという感じである。
私はショーペンハウエルの拗ねた哲学がときどき無性に読みたくなる。不遇のショーペンハウエルは自身をその天才の一人と認識して書いているのは間違いないように思う。圧倒的な知性を持った拗ね者の独白として、その背景の心理に着目して読むと、ショーペンハウエルの厭世哲学はなんだか非常に人間的で、実は弱者的で、共感するところもいっぱいの、おもしろさを感じてしまう。
・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 知性について 他四篇
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.ringolab.com/mt/mt-tb.cgi/2781