2010年2月アーカイブ
<70名の選考委員+500名以上の読者投票で選ばれたビジネス書ランキングの決定版>
私も選考委員の一人として参加させていただいビジネス書大賞の結果が本になった。
「ビジネスパースンにとって学びや気づきがある本」ならなんでもノミネートできるので経営やスキルアップ本以外からも、おもしろい本がリストアップされた。そのすべてと約350本の推薦文とともにこの本に収録されている。(私の著書『情報力』も二人に推薦していただいたようで、感謝感激です。)。
・ビジネス書大賞 Biz-Tai 2010
http://biztai.jp/
ランキングだけならウェブで確認できるが、本書は収録されたインタビューが楽しい。1位の『ブラック・スワン』の翻訳者のインタビューが、インタビュアーに対してかなり斜めに応えていて、受賞インタヴューと思えぬ毒舌ぶりでかなり笑える。読者賞を受賞した勝間和代の「... 5歳、10歳年上の同じ職場の先輩のことだけを聴いていると、かえって間違うことが多い」から自分で考えるための材料としてビジネス書は重要という推薦も独特だなあ。
で、本書にも掲載されているが、私の推薦作品は以下の5冊。選考委員の数が多いので、他の委員とかぶらない本を挙げたつもりだったが、結構かぶっていた。さすが本好き集団。実は私、5冊の推薦文全部に"歌謡曲"を入れるという工夫をしていたのだが、紙ではバラバラに掲載されたため気がついた人はいないだろう...。
なので、ここに再掲載させてもらう。
■デジタルネイティブが世界を変える
ドン・タプスコット (著), 栗原 潔 (翻訳) 出版社: 翔泳社 (2009/5/14)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/12/post-1138.html
ボブ・ディランの名曲に「The Times They Are A-Changin'(時代は変わる)」という歌があった。子供の世代が古い価値観の親の世代に交代を迫る社会派の歌詞は時代は変われど普遍的なものだ。21世紀初頭の社会のChangin'とは、PCやネットを自在に使いこなす"デジタルネイティブ"と、旧世代の"デジタルイミグラント"の交代劇である。ネイティブ層1万人へのインタビューをもとに、8つのキーワードが浮かび上がる。次世代の行動原理を知らずに未来を考えることはできない。
■脱「でぶスモーカー」の仕事術
デービッド メイスター (著), 紺野 登 (監修), 加賀山 卓朗 (翻訳) 出版社: 日本経済新聞出版社 (2009/9/11)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1079.html
肥満も喫煙も"わかっちゃいるけどやめられない"からずるずる続く。会社組織だって「スーダラ節」なのは一緒で、短期的誘惑や満足感に負けてためになるとわかっていることをしないから、利益が出ないのだ。プロフェッショナル組織のリーダーシップ論の世界的権威である著者が、プロ意識を持つ集団において互いに意欲や決意を引き出す方法論を語る。「人に弱みを認めさせ、改善させるのに最悪の方法は、その人を批判することである。」北風でなく太陽のアプローチ。著者は組織の空気を創造的に入れ替える天才である。
■人を幸せにする話し方―仕事と人生を感動に変える言葉の魔法
出版社: 実業之日本社 (2009/4/10) 平野 秀典
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1070.html
講演や授業が生業の一部になっている人は、話術の最低限のテクニックは身につけているものだ。だが、聴衆と、どのような関係性をつくるべきかという点で根本を誤っているケースは結構多いなと思う。壇上のスピーチや日常の会話で、聴く人を幸せにする話術とはなにか?。それは美空ひばりの「愛燦々」の歌詞の如く「人生て
うれしいものですね」としみじみさせるような言葉だ。共感を抱かせ、心の琴線を震わせるための心構え。情報の伝達と心理操作を主としたMBA的な話術とは対極にあるものだ。
■グランズウェル ソーシャルテクノロジーによる企業戦略
出版社: 翔泳社 (2008/11/18) シャーリーン・リー (著), ジョシュ・バーノフ (著), 伊東 奈美子 (翻訳)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/11/post-875.html
インターネットコミュニティの大きなうねり(グランズウェル)を、どう企業戦略に活かすことができるのか。フォレスターリサーチの二人のアナリストが大規模な企業実態調査の結果から抽出した戦略論は、現代の経営者、新規事業関係者、必読である。著者はコミュニティに対するコミット度合によって、人々を創造者、批評者、収集者、加入者、観察者、不参加者と7段階に分類している。そのレベルを引き上げることに成功したグローバル企業の発想の転換ケースがどれも見事だ。現代は"Power
To The People"な時代だが、さらに"to the company"を続ける企業が勝ちなのだ。
■落語論
出版社: 講談社 (2009/7/17)
堀井憲一郎 (著)
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/08/post-1050.html
落語家の自己の面子にかけて、今この場をとにかくどうにかするんだという気迫。紅白の大トリで北の漁場を歌う北島三郎の如く。ビジネスの会議やプレゼンの場でも、そういう姿勢は本当に重要だと思う。ポジション、能力にかかわらず、一緒に仕事をしたいと思う人はそういう人だ。往々にしてその手の人はポジションも能力も既に高いし、それは才能でもあるのだが...。これは落語分析の本なのだが、著者の深い洞察によって明らかにされる場の演出、ライヴの極意は、ビジネスシーンでも活用できそうだ。
知っていれば、助かるかもしれない。
秋葉原無差別殺人事件、十四歳少年バスジャック事件、池田小児童殺傷事件、阪神大震災、和歌山毒カレー事件など日本を震撼させた数十の殺人事件や事故、災害における死を検証して、どうしたら生き残れるかをアドバイスする内容。著者は30年間東京都の監察医をつとめ二万体もの変死者の検死解剖を行った人物。
刃物でいきなり刺されたらどうするか?。とりあえず腕の外側で防ぐ。出血したらまず色を見る。黒ずんだ血なら静脈をやらてたのであわてなくてよい。鮮紅色の赤だったら早急に対処しないと危険。動脈の位置は知っておけ。
人質として首にナイフをつきつけられたら、喉を切られても即死しないが、頸動脈を切られると死ぬと考え、万が一でも耳の下を切られないように意識せよ。プロの殺し屋は喉笛をかき切ることはしないのだそうだ。
私が年に1回くらいで危険を感じる将棋倒しでは、
「満員状態におけるエスカレーターの急停止や逆走は本当に危ない事故だ。それで将棋倒しがおきてしまうと呼吸ができずに圧死してしまう。もし助かりたいと思ったら瞬間的に腕で胸をかばうようにするといい。呼吸ができるように胸の動きを確保するのである。あるいは肺を守るために、身をかがめるような姿勢を取るといい。」
というアドバイスがある。
火事にあったら。海に投げ出されたら。熱湯や薬品がかかってしまったら。誤って毒を飲んでしまったら。有毒ガスが発生したら。動けない状態で放置されたら。拳銃を向けられたら。喧嘩に巻き込まれたら。
そもそもそうした状況に陥らない予防と、遭遇してしまった時の対処法が書かれている。結果的に死んでしまった人たちを調べた研究成果なので説得力がある。いざというときに生き残る確率を少しでも増やすための知恵がいっぱいである。
・死なないための智恵
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/05/post-757.html
子供に好評で、親が見ても楽しいカラー図鑑。小学校低学年向け。
動物の大きさを比べるページでは、大腸菌からシロナガスクジラまでノアの箱舟をひっくりかえしたように多種多様な動物を並べる。小学生の子供と皇帝ペンギンの身長はほぼ同じであるとか、シロナガスクジラは25メートルプールに入りきらないなど、子供の読者が実感でわかるように描かれている。
走りや泳ぎの速さも可視化される。競争で一番速い動物ほど先頭に描かれる。泳ぎの競争では、トップのバショウカジキは25メートルプールを1秒で泳ぎ切ってしまう、マグロも相当に速い。人間はまだスタートしたばかりなのにねえと親子で会話がはずむ。
さまざまなものの高さを大阪の通天閣と比較するページがあって笑えた。世界で一番高い木のセコイアはだいたい通天閣と同じ高さなのだって、関東育ちの私にはよくわからない。関西人にはわかる、のだろうなあ。
この図鑑いいじゃんと思ってWebを調べたら、昨年の発売以降にベストセラーになっているらしい。図鑑で16万部というのは圧倒的なのでは?。
・【手帖】小学館『くらべる図鑑』売れ行き好調
http://sankei.jp.msn.com/culture/books/090906/bks0909061317011-n1.htm
「小学館の図鑑NEO+(ぷらす)、加藤由子ほか監修・指導『くらべる図鑑』(1995円)が売れている。7月初旬に初版7万部で発売したが、約2週間後には4万部を増刷。それもたちまち売り切れて、2日現在第3刷(5万部)を合わせた計16万部に達している。」
価値があるから消費者に選ばれてブランドになるいう「ブランド自然選択説」。ブランド自体の世界観やビジョンが価値を創造するという「ブランドパワー説」。ブランドに対しては対照的なとらえかたがあるが、消費欲望や権威に還元するだけでは説明できない「何か」こそブランドのブランドの本質であると説くブランドの本質論と、有名ブランドをケースにしたブランドマネジメント論。
「ブランドと製品群とはまさに相互に支えあって、ひとつの世界をつくりだしている。それはいわば、どちらかがどちらかを支えているという一方的な関係に還元して理解できず、お互いがお互いを前提とすることで根拠づけられるという自己言及的な関係だといえる。それは、ひとつの社会的実在としての意味世界を形成するきっかけでもある。」
アップルが価値があるのはアップルだから、ソニーがいいのはソニーだからでもある。ブランド価値の定義は無限循環の自己言及プロセスになる。メディアはメッセージであるというマクルーハンの思想が、ブランドという概念にもあてはまる。ブランドパワーは制作者や経営者がこめる思いや夢が想像する意味世界が、実体の世界を動かす力になる。
この本ではブランド・パワーの構成要素として以下のようなものが挙げられている。
「そのブランドは、どれだけ消費者に知られているか」(ブランド知名度)
「その内容を、消費者はどれだけ理解しているか」(ブランド理解度)
「それは、どれだけの試行購入を喚起するか」(トライアル喚起力)
「それは、どれほどの再購入意図を生みだしているか」(リピート喚起力)
「消費者は、それに、どれほどの新しさや驚きを感じているか」(情緒尺度)
「それは、価格面で、他のブランドにひけをとらないか」(相対価格)
こうした要素ではかられたブランドパワーアメリカの上位ブランドは、半世紀以上続いたものがほとんどだ。そこでは一度作られたブランドに対して常に絶えざるブランド価値の再構成が行われてきた。認知されたブランドを企業はどう拡張していくべきか、成功例と失敗例、経営におけるブランドのマネジメント論が語られている。
1999年初版の本なので目新しい事例はないが、ブランドってなんだろうと改めて本質を振り返ってみたいときに役立つ教科書的な内容。
感動した。連作短編集だが全作が傑作ではずさない。
スキエンティアはラテン語で「知識」という意味。クローン、ロボット、惚れ薬など、未来の禁断の科学技術が、人々の生活にどんな影響を与えていくかを描いたサイエンスフィクション。基本はSFなんだけれども、とてもヒューマンドラマしている。
「ボディレンタル」
「媚薬」
「クローン」
「抗鬱機」
「ロボット」
「ドラッグ」
「覚醒機」
クローンにしても人工知能介護ロボットにしても、ここで取り上げられる技術は、人間心理の微妙な領域に入り込んでくるものばかり。生と死、性、家族、恋愛などを変革するイノベーションが登場したとき、私たちはそれをどう受け入れて行くか、あるいは拒絶するかのシミュレーション。
一話目。四肢が動かなくなった大富豪の老女が、人生をもういちどやり直すために、若い女の身体を借りる「ボディレンタル」。映画『アバター』みたいな設定だが、こちらの設定では、二人の意識はひとつの身体に同居する。起業家としてパワフルに生きてきた老女と、何事にも流され気味だった女の、二人の心がせめぎあう。
どの話も人間の命や尊厳と関わっていて、重たく切ない内容なのだが、すべて希望をもたせる終わり方をするのがいい。ほろっ、じわっ系。どらえもんの未来技術とブラックジャックのヒューマニズムを足して2で割って、絵はちょっと諸星大二郎的劇画調。
連続ドラマ化されたらいいなあ。
・著者 戸田誠二氏のサイト
http://nematoda.hp.infoseek.co.jp/
現代アメリカ文学の巨匠コーマック・マッカーシーの長編。
アメリカ開拓時代、インディアン討伐隊に加わった少年が体験する無法と殺戮の旅路。
インディアンを殺して持ち帰った頭皮の数だけ、町から報奨金をもらうという契約を結んだならず者たちは、インディアンを見つけ次第に惨殺しながら荒野を前進していく。力だけがすべてのような世界で、「判事」と呼ばれる2メートル超の巨漢の男は哲学や科学の知識で信望を集める。しかし同時に判事は冷酷な殺戮者でもあり、邪魔なものはインディアンでも仲間でも容赦なく消していく。
少年がたどる荒野の旅路という点では『ロード』と同じなのだけれど、同行するのが息子をどこまでも守ろうとする父親ではなく、怪物的な判事であるという点が違う。このどこの判事なのか定かでない通称の「判事」は、ヨーロッパ的な知性の化けの皮をはがしたようなものとして描かれている。
「倫理というのは強者から権利を奪い去る弱者を助けるために人類がでっちあげたものだ、と判事は言った。歴史の法則はつねに倫理規範を破る。倫理を重んじる世界観は究極的にはどんな試験によっても正しいとも間違っているとも証明できない。決闘に負けて死んだからといってその人間の世界観が間違っていたとみなされるわけではない。むしろ決闘という試行に参加したこと自体が新たな広い物の見方を変えが採用したことの根拠になる。」と判事は言う。
話せばわかるという前提ではなくて、話せば殺しあいになる世界で、勝ったからといって善とも悪ともいえないということ。「生か死か、何が存在しつづけ何が存在をやめるかという問題の前では正しいかどうかの問題など無力だ。この大きな選択に倫理、精神、自然に関する下位の問題はすべて従属しているんだ」と判事。世界の本質的などうにもならなさをむきだしにする衝撃作品。うなった。
・ザ・ロード
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/09/post-831.html
・ザ・ロード 映画
http://theroad-movie.com/
今年日本公開が決定している。
世界的に見ても「ん」ではじまる言葉はほとんどない。「ん」はちょっと特別な音。
「日本語には上代、「ん(ン)という文字はなかった。上代の日本人も、現代の日本人と同じように考え事をしながら「んー」と唸っていたのかもしれないが、それを書くことはできなかった。書けないから、無理をしてでも書かなければならないときには「イ」とか「ニ」という現代のカナカナを記号として使っていた。でも「イ」を使うと「i」、「ニ」と書けば「ni」と発音することになってしまう。「i」や「ni」と間違って読まれないための記号は何かないか......という試行錯誤の結果、「ん(ン)」という文字が生まれてきた。」
古事記をはじめ上代の文書には「ん」と読む仮名が一度も出てこないものらしい。
ありなむ→ありなん
知りなむ→知んなむ
のように、口語として使われたのが最初であるそうだ。次第に大衆に普及して「ん」は平安時代に表記の必要性が感じられるようになり、音をあらわすための文字として成立した。清少納言は枕草子で「いでんずる」などという言葉づかいは汚い表現だと批判したそうだが、んは日本語のシステムのはみだし者として始まった。
「ん」と仏教の関係ははじめて知った。阿吽の呼吸という言葉があるが、真言宗は「阿」からはじまる「阿字観」という瞑想に始まり、「吽」で終わる「吽字観」という瞑想で終わる。これは宇宙の始まりの胎蔵界と宇宙の収縮の金剛界を意味していて、ひとつの宇宙観なのだ。日本語の五十音が「ア」に始まり「ン」で終わるのは、この仏教の宇宙観を反映しているという。「ん」が最後の文字であることにここまで深い意味があったのか。
「ん」には情緒が籠っている。そしてリズムを生みだす。著者は日本語の情緒とシステムをつなぐものだとして、その「ん」を讃える。「ん」への愛情と蘊蓄でいっぱいの一冊。
・怪獣の名はなぜガギグゲゴなのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001944.html
・犬は「びよ」と鳴いていた―日本語は擬音語・擬態語が面白い
http://www.ringolab.com//note/daiya/archives/000935.html
・日本語の源流を求めて
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/11/post-660.html
・日本語に探る古代信仰―フェティシズムから神道まで
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-959.html
「たくさんの脳が集まっているというのは、そのシーンを想像すると何となくグロテスクです。しかし、わたしたちは誰でも一つずつ脳を持っていますから、もし脳がどこにあるかという空間分布だけを図にしてみるなら、東京都だけで、およそ1300万個の脳が東京都内を行ったり来たりしていることになります。さらに、もしみなさんが、いまこの瞬間、通勤電車の中ですし詰めになっているなら、手の届く範囲に少なくとも10個以上の脳がプカプカ存在していることになります。」
ソーシャルブレインズ(社会脳)とは社会に組み込まれた状態の脳の研究である。人間が一番頭を使うのは、従来の脳科学が研究しているような単純な対象の認知ではなくて、空気を読むとか、協調する、対立するという社会関係における認知だ。ソーシャルブレインズこそ脳の本質的なはたらきであるともいえる。
認知コストの押しつけあいのしくみが社会的駆け引きの原理であるという著者の見方が面白い。何かを考える、行動規範を変えるというのは、脳に負担がかかる。だから、上司や強者は、部下や弱者に問題解決の認知コストを払わせる。人間にはもともと自分の認知コストをできるだけ少なくすまそうとする圧力があるようだ。
敷衍すると認知コストが低い状態が幸福という見方ができる。
社会ルールは社会全体の認知コストを減らす。その問題についていちいち考えなくてよくなるからだ。「人が人に与える、母子関係に源を持つような無条件な存在肯定」=リスペクトも、相互の信頼によって認知コストを減らす効果を持つと著者は考える。リスペクトを持ってくれている相手は、自分の利益を気にかけてくれているので、考えるべき変数が少なくなるからだ。
ソーシャルブレインズとは、「母子間コミュニケーションをコアとし、発達の過程でそれを拡張した機能」ではないかと本書は主張する。認知コストがほぼゼロだった赤ん坊時代から、少しずつリスペクトを前提としない相手への対応を学んでいく。社会脳の振る舞いというのはその人の生き方といってもいいのかもしれない。
社会学と脳科学の融合領域に何かありそうだと教えてくれる新書。
プチプチつぶしていると、ときどき変な電子音が鳴るのが楽しい。
ぷにゅっとマメを押し出す感覚を何百回でも何千回でも体験できるというもの。
にゅ~っとところてんを押し出す感覚が味わえる。携帯サイズで実現ということなのだろうが、もうちょっと長いサイズで作ってほしかったきもする。
息子が幼稚園の友人関係で流行っているというので、3つも買った「無限にできる本能に訴えるシリーズ」。それぞれプチプチ、エダマメ、ところてんの感触疑似体験ができる。ムゲンプチプチが発売されたのは2007年9月なので、大人の間ではずいぶん昔のおもちゃなのだが、子供の間でブーム再燃なのだろうか?
大人はなにかをしながら片手でプチプチと、気晴らし、気分転換に使うが、幼稚園児はこれでまじめに遊ぶ。数十回に一回ランダムに変な電子音が鳴るプチプチは、誰かと3回ずつ押して、回しあって遊んでいる。最近はCGや3Dの視覚的イリュージョンに囲まれているが、やはり触れるものは楽しいらしい。
電気的に任意の触覚を再現する電気触覚ディスプレイという研究がある。
・電気触覚ディスプレイ
http://park.ecc.u-tokyo.ac.jp/keisu/kmb_guidance/img/guidance2_2.pdf
以前、こういう種類の研究のプロトタイプを触らせてもらったことがあるが、数ミリのデコボコ感であれば、十分に再現できていた。コストを考えなければプチプチくらいはできるのじゃないかな。将来的には、生きたサメの肌ってこんな感じ、とか、熱くて触れないけど真っ赤な溶岩を触ったらこんなかんじ、など教育分野でこういう成果が使われるようになるかもしれないなあと思った。
・ムゲンプチプチ公式サイト
http://www.asovision.com/putiputi/
・5秒スタジアム
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/08/5-7.html
・ファイナル電卓
http://www.bekkoame.ne.jp/~t_mouri/
Windowsの電卓を使うことはもうなさそう。
ファイナル電卓はよく作りこまれた電卓ソフト。
ビジュアルメモリ機能で、5つのメモリに計算結果を保持することができる。このメモリに対して右クリックでメモを入力することができる。何の計算結果なのかの説明を、文章で残せるのが便利である。
クリップボードからのペーストに対応しているが、おもしろいのはクリップボード内のテキスト中から数字らしきものを抜き出してくれること。[A社の電卓は3000円] という文章をコピーした場合、ペーストされるのは3000という数字である。数字がよく出るWebの文章から、ちょっと実際に計算してみよう、というときに簡単に実行できる。
計算内容、メモリ内容は保存することができて、次回起動時に復帰させることができる。任意の桁でカンマを打つことができる。常駐させることができる。など機能は多彩。コンパクト画面版のファイナル電卓Mも同時にインストールされる。
・inSSIDer
http://www.metageek.net/products/inssider
無線LANの電波の分析ツール。最強。
付近の無線LANアクセスポイントをリストアップして、電波の強さやセキュリティの種類などの情報を表示する。電波の強弱の変化をグラフで記録できるので、干渉などの障害が発生したときの調査ツールにもなる。
一覧に表示されるのは、
・ベンダー名(無線LANアクセスポイントの機種名)
・MACアドレス
・SSID
・チャネル
・RSSI
・セキュリティ
・ネットワークタイプ
・速度
といった項目。
こんなにいっぱい近所にアクセスポイントがあったのかと驚かされた。
Use inSSIDer! from trent on Vimeo.
グラフやデータはファイルとして記録することもできる。
スティーブ・エリクソンの前衛世界文学の和訳最新刊。これまた大変な奇書である。
筋がよく分からなかったのに、強烈な印象を残して、いつまでも引きずる映画っていうのがある。たとえばデヴィッド・リンチ監督の『インラインドエンパイア』などかがまさにそうだ。現実と劇中で撮影中の映画の筋が錯綜し、何が現実なのかわからなくなっていく。精神錯乱状態で見る悪夢のような内容なのだが、映像の持つ強いイメージ喚起力は、トラウマの如く記憶に刻まれる。エクスタシーの湖もこれに似ていて、読者の脳裏にいつまでもこびりつくタイプのやっかいなビジョン小説だ。
ハリウッドの交差点にできた小さな水たまりが、次第に成長してロサンゼルス全域をのみこんでいく。謎の湖にゴンドラから飛び込んだ女は、湖底を突き抜けて向こう側の世界の湖面へ浮上する。湖に浮かぶ廃墟のような建物で、女はSMの女王として君臨する。前の世界にゴンドラに残してきた幼い息子のことを思いながら、名前と役割を転々とする数奇な人生を生きる。話の筋を追えなくなるほど話は混乱と錯綜を極めていく。
カオスな内容だけでなく、テキスト表現の前衛アプローチも見事に翻訳・再現されている。まず一目見てかなりおかしな本なのだ。水中に落ちていく女の物語は、一行のテキストとしてひたすらまっすぐ、何百ページもまたいで突き抜けていく。女の水中への落下と並行して、フォントとレイアウトを頻繁に変化させながら、錯綜した物語は進んでいく。どう読むべきかまず悩むところからとりかかる。表現の奇抜さと挑戦読書度はともにジェイムズ・ジョイス級。ちょっと気力体力いるのだが、とてつもない読書体験を保証できる。
私が読んだエリクソン本では「黒い時計の旅」や「ルビコンビーチ」の方がとっつきやすいが、ビジョンの強烈さははるかに「エクスタシーの湖」が強いと思った。最初にこれでもいいのかも。
顔写真を使って人間プラモデルをつくるのがペラモデル。私はこれを家族全員分つくって、内輪向け年賀状のネタにしてみた。専用ソフトウェア上で簡単に顔写真を加工してシールへの印刷ができる。シールを貼り付けてプラモデルを組み立てればできあがり。
完成するとこんなかんじで手足は可動なので、ポーズがいろいろつけられる。コマ撮りアニメなんかつくったらおもしろそうだ。ほかにスカートをはいた女性、小さなサイズの子供モデルもある。年賀状では妻子のモデルと並べた。
ネットでダウンロードできるソフトウェア「ペラモメーカー」を使うと、顔写真の合成と着せ替え人形的にモデルの着る衣装を設定できる。ソフトで合成、印刷、シール貼り付けなどだいたい一体20分程度でつくることができた。
・ペラモデル公式サイト
http://pellermo.com/
死と隣り合わせのベトナム戦争の兵士、高額報酬と引き換えに危険な深海に潜る潜水士、ガンと戦う初老の女性、癲癇と記憶喪失でインドを放浪する男など、人生の苦難と戦う人たちの姿を描いた短編集。トム・ジョーンズ。表題作は93年にO・ヘンリー賞を受賞。日本では96年に新潮社から単行本で出版されていたものが、2009年9月に河出書房で文庫化。
虚しく終わる闘いだとわかっていながら、運命に抗いのたうちまわっていると、ふと見えてくる至高の境地みたいなもの。アドレナリンが沸騰して感覚が限界を超越する"紫の領域"の戦士。長距離ランナーが感じるという苦しさの末の至福でハイな状態みたいなものを描く作品が多い。暗い話なのにどこかに明るさを残す。
著者の経歴は相当にユニーク。アマチュアボクサーとして150以上の試合に出場し、海兵隊に入隊するが、ボクシングで負った傷がもとで側頭葉てんかんを患い除隊、大学の創作科に学ぶが小説家としては売れず、用務員の仕事をして暮らす。糖尿病、アル中、薬物依存に10年間苦しんだ。あるとき、2万5千通に3編しか採用されないといわれる『ニューヨーカー』誌に掲載が決まって、突如売れ始めた。この本に収録された10編には10人の、性別も年齢も職業も異なる、いろいろな境遇の主人公が登場するが、おそらくすべてに著者の経験が反映されている。だから濃い。
ショーペンハウアーの言葉が何度も引用される。一般にペシミストで皮肉屋に分類されがちなショーペンハウアーだが、この作品の文脈では、その言葉が希望であり真理のように響く。
「若き日に、来るべき未来に思いを馳せるとき、我々はさながら開幕前の劇場に座り、カーテンが上がるのを胸ときめかせて待っている子供である。待ち受けている現実を知らずにいることは、我々にとっては幸いである」(ショーペンハウアー)。
・読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html
「生きている天才100人」で日本人最高位に選ばれたロボット研究者 石黒浩氏。どきっとするくらいリアルな女性と子供アンドロイド、自身にそっくりな遠隔操作の"ジェミノイド"を制作したり、ロボットと人間が演じるロボット演劇をプロデュースしたり、「先にまずロボットやアンドロイドを作ってみて、そこから人間を知る」構成論的アプローチで、人間の脳や心のしくみ解明に迫る。
人間のように心をもったロボットを作ることはできるのか?という問題に対して、著者は「人に心はなく、人は互いに心を持っていると信じているだけである」と言い、心を持っていると信じさせるための条件を探す。
自律型ロボットのロボビーの展示では、
「このロボビーと遊んでみた人は全員一様に、ロボビーには感情があると言う。むろん、我々開発側としては、感情生成機能は一切実装していない。しかし、たとえば、しばらく遊んだ後でロボビーが突然「バイバイ」と言って離れていくと、「ロボビーは冷たい」とか「ロボビーは怒ったのかな」と言う。あるいは、ロボピーが部屋の隅で「誰か遊んでね」とつぶやいていると、「ロボビー、寂しそう」と言う。さらにおもしろかったのは、研究所に来た客が、あるロボビーと遊んでいると、部屋の隅にいたもう一台のロボビーがやってきて、その二人の間に割ってはいり、「遊んでね」と言って別の遊びを始めた。その様子は、本当にそのロボビーが嫉妬しているように見えた。」
ロボット演劇においても、演劇のプロの指導で設計された動作をするロボットを見た観客たちは、ロボット役者に心を感じた。これは「役者に心はいらない」のと同じである。本物の役者だって演技中は何を考えていようが、観客に見える動作が決まっていれば、情動を表現できる。
ロボットが人間にそっくりであればあるほど、そうした力が強くなる(不気味の谷という例外はあるが)という仮説のもとで、著者はひたすら人間にそっくりのアンドロイド制作を続けてきた。
よく雑誌やテレビで取り上げられている自身とそっくりの"ジェミノイド"は、遠隔操作で動かすロボットだ。リモートで人間が操作する、訪問者とジェミノイドとの対話が五分ほど続くと、操作する者は、ジェミノイドの体が自分の体であるかのような錯覚を覚える。ジェミノイドの頬を突っつかれると、本当に自分が頬を突っつかれた気分になるらしい。不意に触られると不快感を覚えもするという。人の心は容易に憑依する性質があるということか。
ロボット工学の技術論はほとんど出てこなくて、人間らしさ、人間とは何かをひたすら追究していく著者の姿勢は、哲学者のよう。人間と同等の常識や高度な推論系を持つ人工知能なんていつまで待っても完成しないだろうが、このアプローチだったら案外に近い将来、人間と見分けがつかないアンドロイド、出来てしまうかもしれない。生きている天才に期待。
・自分そっくりのコピーロボット開発に世界仰天!石黒浩/Tech総研
http://rikunabi-next.yahoo.co.jp/rnc/docs/ct_s03600.jsp?p=000923
・大阪大学でロボット演劇「働く私」が上演
~「エンターテインメント型実証実験」で近未来を疑似体験
http://robot.watch.impress.co.jp/cda/news/2008/11/27/1468.html
・ロボット
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/03/post-714.html「ヘレナ、人間はいくらか気違いであるくらいでなければ。それが人間の一番いいところなのです。」
マイコンとファミコンにどっぷりつかった8ビット世代なら楽しめる漫画を2冊。
ゾルゲ市蔵氏による80年代年代記の形をとった自伝マンガ。日本のデジタルコンテンツ第一世代が、薄暗いゲーセンと低解像度な画面で過ごした青春回想。30代から40代でパソコンをやっていた人は懐かしさに浸れるはず。
インベーダー、ゼビウス、MZ-700、X1、スペースハリアー、そういえば80年代は画面背景は常に黒だったなあ。日本のネット黎明期、人気のISPベッコアメの背景が黒だったため、どことなくWebにも、アングラ、サブカルなイメージがあったなあと、今振り返ると思う。"黎明"っていうけれども、ゲーセンにせよ、8Bitパソコンにせよ、ビデオゲームにせよ、薄暗がりの中から、次世代のコンテンツが立ち上がってくる法則ってないだろうか。ないですか?。
「●ファミコン中毒のきっかけとなった少女との淡い出会い「初恋少年」/●ユートピアだったあの駄菓子屋は今?「駄菓子屋少年」/●FFV発売を待つ列の先頭での恐怖の一夜「行列少年」/●俺のBrand New Heartはどこに?「センチメンタルハート少年」/●雨の日に最高に贅沢にプレイする方法「秘密の城少年」......みんな実話です!!」
こちらもダメ人間感漂う80年代期。日本の"ビーイング・デジタル"の実像ってこんな風だと思う。ニコポンがいうような高尚なものじゃなかったはず。こうした原体験を共有する世代が、いまコンテンツ産業の中核になろうとしている。日本のアニメには弱者への優しさや強すぎない正義感が織り込まれている気がするのだけれど、それは制作者たちがこういうマイノリティ文化の出身だからというのは大いにあるんじゃないだろうか。
ところで、この本には登場しないが、80年代にはレンタルソフト屋という業態が存在していた。レンタルビデオと同じように、市販のパソコン用ソフト(多くはゲーム)を2泊3日500円くらいで貸し出すという商売だ。5000円とか1万円以上もするゲームソフトやビジネスソフトが、そんなに安く手に入るのだから、当時のマイコンオタクたちはレンタルソフトを愛用していた。今なら「それって違法じゃ?」と思うわけだが、当時はソフトウェアをめぐる法律がはっきりしておらず、レンタルソフト屋さんはレンタルビデオと同じように、表の舞台で営業していた。ああいうのの内幕を描いた作品誰か描かないかな。最後どうなったんだろ?
・センチュリー iArm2 USB充電ケーブル IARM-PDIU2
見たままの通り、DSi、DS Lite、NDS、GBA SP、PSP、iPod、iPhoneをUSBで充電するケーブル。
デバイスごとに端子部分だけを差し換えるマルチ充電ケーブルも多いが、それだと使っていない端子をなくしてしまいがちである。一度に使うことはまずないわけだが、全部つながっている、このタイプの方が発想が潔く、頼もしい。
私の家では先日紹介したモバイル充電器と組み合わせて、こんかんじで携帯している。
これがあると休日に家族で外出する際に、私と妻はiPhoneの、子供はDSの充電ができるため家族円満になる。
ケーブルは90センチ。接続できる機器は1台のみで複数同時充電はできない。
・Infinity リチウムポリマー内臓 AC充電器
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/iphone2-infinity-ac.html
・iPhone がおサイフケータイになるケース Case-Mate iPhone 3G / 3GS ID Case with Screen Protector
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/02/-casemate-iphone-3g-3gs-id-cas.html
・Simplism Dockコネクター用ネックストラップ TR-DSI
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/01/simplism-dock-trdsi.html
・iPhone USBケーブル(充電・データ転送)機能のついたストラップ UKJ-PHST BK
http://www.ringolab.com/note/daiya/2010/01/iphone-usb-ukjphst-bk.html
・iPhone充電 カバーをつけたままでOKのクレードル サンコ- iPhone 3G 可変式USBクレ―ドル USBIPZ7
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/10/iphoneok-iphone-3g-usb-usbipz7.html
最近毎日聴いているのが女性シンガーソングライター Regina Spektorのアルバム。
魅力は多彩な声色。シェリル・クロウの"Strong Enough"みたいな、声だけでハっとさせる魅力を備えたボーカルだが、曲によってビリーホリデイみたいな低音、ハスキーな高音、ささやき声、ボイスパーカッションのような声を使い分ける。一曲の中でいくつもの声が出てくることもある。よくこれだけの声のバリエーションを出せるものだなあと聞くたびに感心してしまう。
曲調もフォーク、ロック、ポップ、ミュージカル調など多様で、アルバム一枚を何周聞いてもなかなか飽きない。気に入った曲を3曲、Youtube動画で紹介。
ポップ調
書籍の未来と文学の未来に関する論考集。
「紙の書籍が遠くない未来、これまで果たしてきた役割を終える」という前提で、出版業界と文学界に不可避に生じる変化を予測する。タイトルから期待するデジタル化のインパクトについての考察は全体の3分の1くらい。文学のおかれた環境と変化についてが3分の2を占める。
著者は書籍という媒体の特性を3つ挙げる。
1 文字情報の容器としての側面
2 主体が文字情報と接触するインターフェイスとしての側面
3 消費社会における商品としての側面
電子化による変化はすべてに大きな影響を与える。
「電子化されたデータの最大の強みは、それが、物理的・空間的な質量を有しないことである。かつて立会場で目視で取引されていた為替や株式の市場が、電子化されることでいっきに流動性を増したように、情報から質量を奪い去ることは、その効率性を飛躍的に高める。」
著者は1人が1000人の読者から1年に3000円を払ってもらえば12万人の作家を支えられるというモデルを提示している。個人ブログやメールマガジンのマネタイズ成功例(それで独立した、など)も増えているので、私も注目しているパターンだが、この計算年間に1人300万円に過ぎない。主旨は賛同だが、もうちょっと夢のある数字の方がいいんじゃないかという気もした。
文学というカタチは、電子化されることによって、読書スタイルの変化をもたらすだろう。検索とクリックが可能な電子テキストでは、これまでのように長い本をリニアに延々と読まなくなるかもしれない。
大江健三郎は「インターネットで本を読むといっても、それは本を解体することですね。一冊の本をバラバラにしていくだけ。しかしそれで終わるんだったら、人類は進化を続けなかったということです」と文学の新しい様式に懐疑的に語ったそうだが、ハイパーテキストやインタラクティブコンテンツを前提としたアートが大江健三郎的な旧態文学とせめぎあい、長い時間をかけて主流を乗っ取るということなのではないかなあと思う。
この本は、現代文学の文学部的な問題を語った章も多いので、「出版の未来」のみの本ではない。紙の小説が亡びるとき、の方が内容に近い。
1905年、ベルリンの上流階級の青年が見聞を広めるために休職し世界一周旅行に旅立った。アメリカ、日本、朝鮮、中国、インドネシア、インド、スリランカなどを1年半かけて周遊し、各地の風景、風物をカメラで記録に残した。彩色が施されて疑似カラー化された写真はどれも傑作ぞろい。100年前の世界中にタイムスリップできる写真+紀行文のビジュアルブック(ナショナル・ジオグラフィック刊)。
シルクハットやロングスカートの人々が行きかうニューヨークや、カウボーイが馬車に乗り西部劇の舞台のようなアメリカの町、辮髪の男たちが闊歩する中国の道、など古い歴史物の映画を見ているような気分になるが、セットではなくすべてが本物。
4カ月滞在した日本の印象は特に素晴らしかったようで、「この上なく清潔で異国情緒にあふれ、細かい心遣いが行き届いた旅館」に感動し、「一気に体にまわり、華やいだ気分にさせる」燗酒に酔って、「エロチシズムを感じさせない女優や歌手のよう」な芸者たちと楽しく交流したことが記録されている。
「当時日本では、ビフテキはヨーロッパ人に対する最高級のもてなしだと信じられていた。直立不動の役人と通訳の脇で、私はこの巨大なビフテキを食べ始めた。幸い私はまだ若く、食欲は旺盛で胃も丈夫だったので、さほど苦労せずに食べることができた。この儀式に時間をかけては失礼にあたる、と同時に一口噛んでは会話を続ける必要に迫られ、それがさらに状況を複雑にした。」
30歳の時の世界旅行だったが、紀行文が書かれたのは実にその50年後、著者80歳の時だったそうだ。50年の間に著者は結婚し、子供をもうけた。世界大戦があり、ナチスを嫌った著者はドイツ国籍を捨てた。兄弟や友人の多くは亡くなっている。遠い日の思い出として自分の青春時代を回想してこれを書き下ろした。こんな走馬灯が見られる晩年ってうらやましい。若い時にいい旅をするってことは意味があるのだ。
写真が本当に素晴らしい。2時間ほど意識が時空を飛んだ。
ジャック・アタリが「21世紀の歴史」で示したビジョンから、金融危機後の世界を予測する。金融危機を2007年2月から時系列で追ったドキュメント「世界金融危機」と、近い将来に発生しうる最悪の事態の描写、それを避けるための提言からなる。
「危機へと導いた一連の出来事は、アメリカをはじめとする、すべての先進国における社会的不平等の拡大からスタートした。すなわち、社会的格差の拡大こそが、需要にブレーキをかけたのだ。こうした事態が進行したのは、アメリカが、自国の金融システムを「公正なる」所得分配制度として採用することについて、社会から暗黙の了解を取り付けたからである。 さらにはアメリカの金融システムの潜在能力により、監視(規制)されることのない新たな金融商品が開発された。これらの金融商品により、アメリカの金融システムは、儲けまくると同時に借金を膨らませることができた。こうして自らが抱える諸問題は隠ぺいされ、問題を、ロンドン市場・ウォール街・オフショア金融市場などを経由して、他に移し変え、また輸出することができた。」
アタリは現代の金融危機とはアメリカと金融業界の節操のなさが原因であり、結果として「若年層の相対的な減少と所得の偏りによる危機」を招いたと要約している。このまま社会的不平等の拡大と無軌道な金融商品の開発が続くならば、ハイパーインフレや世界大戦という最悪の事態が訪れるぞと警鐘を鳴らす。
今、各国政府は民間機関の債務を政府(納税者)の債務につけかえることで、問題を先送りしているが、それではカタストロフは避けれれない。じゃあ、どうするというところで、
「世界的危機を回避するためには、グローバル化した市場を政治化することが必要であり、地球規模の法整備が求められる。また、経済の主役の座から金融を降板させる必要がある。」
というのがアタリの考え方だ。そのための改革プログラムが後半ではいくつも提案されている。国際金融システムへの規制と、世界統治システムの構築、地球規模の大型公共事業...。フランス大統領顧問だけに政策提言のスケールは大きい。
アタリは前著「未来の歴史」に詳しいが世界を動かす根本原理に、自由に向かう人類の普遍的な性質をおいている。"アメリカ"も金融市場も、自由を求める欲望がつくりだしたものだ。意思も持たない目的ももたない「ゴーレム」としての市場原理や民主主義が暴走した場合、誰がそれを止めるのか?という難問とアタリは格闘している。
感想としては、道徳でそれを制するというのは、かなり難しいことなのではないだろうかと思った。欲望を欲望で制するような、したたかなプラン、欲望経済のオルタナティブな(しかもエコな)収束点を未来ビジョンとして提示してみせること、それができるリーダーの登場が必要なのだと思う。オバマではまだ足りない。
・21世紀の歴史――未来の人類から見た世界
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/02/21-1.html
名著
・図説「愛」の歴史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1104.html
これもアタリ
・リンケージ Infinity リチウムポリマー内臓 AC充電器 大容量2000mAh 海外対応 USB接続タイプ 携帯電話、iPod、iPhone、mp3プレーヤー、DSi、DSLite、PSPなどに ブラック ACLD-04B
iPhoneの最大の弱点は電池であると思う。普通に使っていれば結構長持ちするのかもしれないが、アプリをたくさんいれてガンガンつかってしまうと半日しか持たない。外出先での充電は必須になる。
このリンケージ Infinity リチウムポリマー内臓 AC充電器は、iPod、iPhone、mp3プレーヤー、DSi、DSLite、PSPに対応したモバイル充電器。各機器に対応したUSBケーブルを使って接続する。
この充電器の特徴はバックライト付き液晶表示で、電池残量をわかりやすく表示していること。iPhoneなら2回充電できる大容量だが、残量表示があることで安心感がさらに倍増する。おかげで外出先で電池切れした知人を、私は何度もこれで助けてあげることができた。残量がわかるからこそ太っ腹に提供できるのだ(笑)。
家庭用コンセントを内蔵しており、単体で充電が可能。本体充電中でもUSB機器充電が可能(機器が優先らしい)なので、家や会社ではとりあえず、この充電器経由で充電しておけば間違いない。
注意:この製品にポンデライオンはついてきません。
妻が絶賛愛用しているiPhoneケースを紹介。
このケースは「クレジットカードや 「Suica」 「TOICA」 「ICOCA」 などの電子マネーカードを入れれば、iPhoneが、おサイフケータイになる」というのが売り。iPhoneをタッチするだけで、電車の改札を通ることができる。携帯電話時代にはできていたけど、iPhoneにしたらできなくなってしまった便利を取り戻せる。
カードは2枚重ねて入れることができる。妻の場合は、SUICAとNANACOを併用しているが、2枚重ねにするとSUICA使用はOKだが、NANACOは読み取り時に干渉するらしく、取り出して使っているそうだ。
液晶保護シート・本体保護シート、クリーニングクロスが付属している。それを考えるとそれほど高くはないか。
ちなみに上の写真ではポンデライオンのマスコットがぶらさがっているが、このケースにストラップ穴があるわけではない。細い紐でジャケットの端に無理やり結び付けている。保証外でしょうが、こういう使い方もあります、ということで。
・人間集団における人望の研究―二人以上の部下を持つ人のために
俗に「人望がある」とか「人徳がある」というが、俗にではなくて厳密にそれってどういうことなのか、明解な答えを学べる本。「空気の研究」山本七平による昭和に書かれた名著。
その答えとはすなわち次の「九徳」を備えているタイプだという。
寛にして栗 寛大だが、締まりがある
柔にして立 柔和だが、事が処理できる
愿にして恭 まじめだが、ていねいで、つっけんどんでない
乱にして敬 事を収める能力があるが慎み深い
擾にして毅 おとなしいが内が強い
直にして温 正直、率直だが温和
簡にして廉 大まかだが、しっかりしている
剛にして塞 剛健だが内も充実
彊にして義 強勇だが義しい
9つの徳は朱子学の入門書『近思録』よりきている(この本は戦前は広く読まれたものであったらしい。)。これらの徳にすべて欠ける(寛大でなくて、締りがないのような状態)と十八不徳といって最悪の人間だが、大体は寛大だが、締りがない、のように一方が欠けた九不徳が普通の人間になる。人望のある有徳の人になるには「中庸」というバランスが大切なのだ。「中庸」という自己統御を通じて、それを他に及ぼしていく状態を現出した人が「人望のある人」なのであると説いている。
「人気」と「人望」が混同されることがあるが、この二つは別物だという指摘が鋭い。舞台では人気役者だが楽屋裏ではまったく人望がない人というタイプがいる。そういう人は部下に慕われない。日本型の平等社会でリーダーに選ばれるのは、学歴や能力を超えた評価基準としての人望を備えた人なのである。人気がある人は非常識であるが故に人気があるということも多い。非常識では人望は取れない。同じ能力ならば中庸な人が選ばれるということになる。
読んでいて思ったのは、でも日本の国政選挙って人気で選ばれてしまうよなあ、ということ。中庸というのは、つきあってこそわかるもので、メディアやネットを通すとなかなか伝わらないものなのではないだろうか。中庸な人の落ち着き・風格というのは、目立ちたがり屋の競争社会=アテンションエコノミーにおいては不利に働く属性なのだと思う。
山本は「「空気」の研究」で、日本的な組織では、ホンネの投票とタテマエの投票を二回やって平均をとれば良い決定ができるというアイデアを披露していた。そこで私も考えてみたのだが、選挙では、候補者の身近な人の360度評価の開示とともに普通の選挙を行うというような改善案はどうだろうか。へえ、あの人は有名人だけど人望度は低いのね、投票するのはやめておこう、なんて判断ができるようになるのではないか。
・「空気」の研究
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/11/post-1115.html
プロが教えるアート批評の書き方。美術、音楽、絵画、映画をどう言葉で表現するか。
「そもそもすぐれた芸術作品は、本質的にその芸術固有の媒体(音楽なら音、絵画なら色彩)によってしか表現できないことを表現しています。それを言葉で写し取ることは根本的に不可能なのです。この意味で批評の言葉は本質的な無力をうちに抱え込んでいます。ボードレールは、批評の言葉が理性的な言葉であることはできず、批評自体がひとつの芸術作品となるほかはないというようなことを書いています。」
メディウム・スペシフィックな性質を乗り越えて、言葉にできない感動を敢えて言葉で伝えようとするのがアートの評論行為だ。そこでは普通は悪文とされるものがアートの批評としては名文とされたりする。映画評論家としてのジャン=リュック・ゴダールの華麗なレトリックの例が紹介されていた。これ。
「イングマール・ベルイマンは瞬間の映像作家である。......イングマール・ベルイマンの一本の映画は、こう言ってよければ、一時間半にわたって自らを変貌させ、引きのばし続ける二十四分の一秒である。まばたきとまばたきの間の世界であり、心臓の鼓動と鼓動の間の悲しみであり、拍手のひと打ちとひと打ちの間の生きる喜びなのだ。」
私はこの映画を知らないが、この一説を読むと何かイメージが伝わってくる。引きのばし続ける二十四分の一秒や、心臓の鼓動と鼓動の間の悲しみとは何なのか、実は語っていない不明瞭な文章なのだが、批評対象の魅力は伝わってくる。ある程度は支離滅裂な構成もありなのだ。
「ことは美術に限った話ではないが、批評とは個人の主張を前面に押し出した言説であり、しかも多くの場合、その習慣は客観的な根拠に乏しく、個人の勝手な思い込みに由来している。」
まずこれを認めてしまった上で、さあ、どう書こうかと始める。それが結局、言葉にできないものを言葉で伝える挑戦の第一歩ということらしい。ロジカルさを追究するだけでは感動を呼ぶ文章にならない。そして最終的にはその書き手なりの文体を獲得することが大切だと教えている。
この本はプロのアート系ライターが、いくつものノウハウや試行錯誤、悩み所を解説する小論集。本来は、評論ライターのプロを目指す人向けの本だ。だが、こういう技術はいまや少数の評論家だけの問題ではない。ブログでアートを紹介したり、食べログや価格コムみたいな掲示板に書き込みをするときだって使える"百万人の"技術でもあると思う。
上野千鶴子の"処女喪失作"が四半世紀ぶりに文庫化。カッパブックスから岩波現代文庫へ。
「男は「女らしさ」を振つけし、読みとり、鑑賞し───そしてもちろん、発情する。この「らしさ」のカタログは、男たちの作ったマスメディアの中に、うんざりするほど登場する。いまからお目にかけるのは、広告というもっともポピュラーな媒体に登場する、女たちの「らしさ」のカタログであり、その隠されたメッセージを読みとく手引きである。」
四半世紀経っても男の目から見てのセクシー=「女らしさ」はあまり変わっていないように思える。四つん這いだとか、体をくねらせるとか、流し目、濡れた唇に、男はついついそそられてしまう。広告はそうした男性の心理を利用して、巧妙に商業的メッセージを発信してきた。
「女らしさ」は男性が文法をつくりだす。こんな面白い研究が紹介されている。
「女性がオールヌードでいるところに、突然、男性が現れたとき、彼女は二本の手でまっ先にどこを隠すか?」をある比較行動学者が調べところ、3つの選択肢が見つかった。
1 両手で胸を隠す
2 両手で性器を隠す
3 片手で胸を、片手で性器を隠す
調査結果では先進国の女性はほとんど例外なく両手で胸を隠した。未開社会でトップレスで暮らす女性が下半身は必ず腰巻で覆っているのと対照的な結果になった。これは先進国の文化では乳房がセックスシンボルに変わったからだという。
もともとルイ王朝時代のフランスでは貴族女性のドレスはトップレスで、女性は乳房を堂々と誇示するものであったそうだ。形のよい乳房をつくるためのブラジャーが登場してから、それは隠すものになり、シンボルとしての価値を高めていった経緯があるなんていう歴史も紹介されている。
男性によって規定されたセックスシンボルだが、とっさに女性が胸を隠すようになったというのは興味深い。論理的に考えているわけじゃなくて、自然にそうした行動に出る。俗に性的本能と思われているものは実はかなり深くまで社会的、文化的な創造物なのだ。そして乳房を隠そうとして、体をくねらせる防衛姿勢もまたセクシーのメッセージとして文法に織り込まれていく。
今読んでも面白い、「らしさ」という社会的衣服の読み方、読まれ方、読ませ方を語る本。つまるところ、いい女って何かという問題には、「口説けば落ちる」と男に思わせること、もっというなら「やらせる女」(ビートたけし)のイメージだと答えられている。美術の歴史を古代まで遡ってみても、それってかなり普遍的な真理のようだ。日本神話のイザナギ、イザナミだって誘う男、誘う女という意味があるわけだから「セクシィ・ギャル」は浮ついた話題なんかじゃなくて、人類の大問題なのであるよ。
・裸体とはじらいの文化史―文明化の過程の神話
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/09/post-1064.html
・セックスと科学のイケない関係
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/05/post-987.html
・性欲の文化史
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/07/post-1020.html
・日本の女が好きである。
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/06/post-1010.html
・ナンパを科学する ヒトのふたつの性戦略
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/04/post-972.html
・ウーマンウォッチング
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/03/post-958.html
・愛の空間
http://www.ringolab.com/note/daiya/2008/04/oso.html
・性の用語集
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004793.html
・みんな、気持ちよかった!―人類10万年のセックス史
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005182.html
・ヒトはなぜするのか WHY WE DO IT : Rethinking Sex and the Selfish Gene
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003360.html
・夜這いの民俗学・性愛編
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002358.html
・性と暴力のアメリカ―理念先行国家の矛盾と苦悶
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004747.html
・武士道とエロス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004599.html
・男女交際進化論「情交」か「肉交」か
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004393.html
「パラダイム」概念の創始者トーマス・クーンの研究。
一般にパラダイムという言葉は「考え方の枠組み」や「新しい物の見方」という程度の意味で使われているが、クーンの原義は「その領域の研究活動を特徴づける模範例となる科学的業績」を指す。枠組みや見方ではないのである。この誤解はクーン自身の乱用も原因だったらしい。クーンは文献の中で21通りもの異なる意味で使っていると他の研究者から指摘されている。そこで「専門母型」という厳密な概念も生み出したが、こちらは流行らなかった。
クーンによると科学の歴史的展開は「前科学→パラダイムの形成→通常科学→変則事例の出現→危機→科学革命→新パラダイムの形成→通常科学」というサイクルを繰り返す。器官として長いのは知識を累積させて連続的に進歩を重ねる通常科学の時代だ。だが、地動説、重力、相対性原理の発見のような新たなパラダイムが形成されると世界観は革新される。クーンはその模範例の出現に科学の断続的で飛躍的発展のきっかけをみた。
同時にふたつのパラダイムを信じることはできない。しかし、通約不能な新旧パラダイムを奉じる科学者同士は、まったくコミュニケーションができないわけではないとクーンは考えた。「あるパラダイムから別のパラダイムへの移行は、それゆえ論理学の問題ではなく、クーンによればそれは社会学や心理学が解明すべき問題なのである。」ともいう。
「コミュニケーションの途絶状態にある参加者たちにできることは、お互いを異なる言語共同体のメンバーと認めた上で、翻訳者となることである」。
その時、翻訳者は常に「唯一の正しい翻訳」を確定できないことを前提としいる。"トンデモ"とか"異端"に対して寛容であることが一流のイノベーターの条件ということになるのだろう。(寛容度を極限まで高めるファイヤアーベントの「知のアナーキズム」も後半でパラダイム論と絡めて論じられている。)