理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性
ゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理、アロウの不可能性定理。それぞれを数学と論理学の限界、科学の限界、民主主義の限界と言いかえることもできる。3つの限界から、人間は何をどこまで、どのようにして知ることができるかを、仮想的なシンポジウム形式で議論する。
仮想的な登場人物は"司会者"と数十名。"大学生""会社員""哲学者""数学者""情報科学者""科学史家""論理学者""方法論的虚無主義者"など、それぞれの立場から、限界に対する意見が表明される。専門的な話も、大学生や会社員がわかるように、司会者が誘導する。
ノーベル経済学者のアマルティア・センは、理性の限界を認識せず、既存の合理性ばかりを追う人を「合理的な愚か者」と呼んだそうだが、ほとんどの現代人は愚か者に該当してしまうだろう。なぜ知ろうとしないかと言えば、知っても知的好奇心を満たす以上に、実践的に役立つことがほとんどないから、というのが主な原因だろう。
これら3つの限界の共通点は、人間の能力や技術が不足しているからではなくて、原理的に無理だから、という性質である。どうやっても無理、絶対無理なのである。ただし、その無理というのは理論的に極限的な状況においての話である。普通の人間がそうした限界を実際に経験することはほとんどないといっていい。だから、知っていても、知らなくても大体において、大差はないのである。
しかし、知的好奇心は満たされる。理性でとらえられないもの、理性を超越したもの、を考えるのは、とても楽しい。囚人のジレンマ、ナッシュ均衡、ラプラスの悪魔、シュレディンガーの猫、アインシュタインの相対性理論、神の非存在論、コンドルセのパラドクス...限界を説明するための何十個もの理論が紹介されている。科学や哲学の世界を積み上げ式で全部理解していくとしたら大変だが、こうした限界点を一周めぐることによって効率よく人間の知の全体像が見えてくる気がした。。
ただ、どうだろ、原理的に無理でも、原理の認識を変えることはありえるかもしれない。脳を改造して、私たちの認識や思考能力を根本的に書き換えることができるようになったら、こうした限界を近い将来に超越することもあるんじゃないかなあ。
トラックバック(0)
このブログ記事を参照しているブログ一覧: 理性の限界――不可能性・不確定性・不完全性
このブログ記事に対するトラックバックURL: http://www.ringolab.com/mt/mt-tb.cgi/2658