太陽を曳く馬
この作家 高村 薫を全部読もう、と思った。凄いよこれは。
私は言ったことを要約されるのが本当は嫌いだ。「つまり、それはこういうことでしょ」と言われると内心「違うよ」と思ってしまう。一生懸命に伝えたいことほど細部に思い入れがあるのであって、大意要約されてしまうと、途端につまらなくなる気がするのだ。情報化で失うものが確実にある。
だが、それをいうと本を紹介する私のブログだって日々同じ過ちをおかしている。これはこういう本です、と要約せざるを得ない。時間の関係で、紙面の関係で、需要の関係で。現代の情報化社会では、常に情報は圧縮されて扱われる運命にある。情報流通に必要な機能的な骨組だけを残して、ばっさりと血肉が切り落とされてしまう。小説の"あらすじ本"がベストセラーになる時代だ。
信仰や哲学もまた。
私は9.11同時多発テロの真の原因は宗教ではなかったと思っている。情報化とか対象化ということが悪かったのではないか。同じ人間なのだから話せばわかるというユマニスム、言葉=情報で他者を理解できるという誤解がいけないのだと思う。普通の人間関係にだって、話せば話すほど噛み合わなくなる場合がある。異質であるものを、自分のフレームで対象化し、情報化することは、相手の血肉を切り捨てることだ。だから争いが起きるのだと思う。
解決法?。徹底的に棲み分けるか、男女が交配するか、どちらかだろう。話し合いではない気がする。そして対象Aに対して到達し得ないことを知ること、知った上でせいぜい近づけるところまで行ってみること、で満足しておくべきだ。その対象Aは、宗教「神」「仏」だけでなく、「自由」や「死」であったりもする。
主人公の刑事 合田雄一郎は、光のビジョンに狂った青年画家の奇妙な殺人事件と、てんかん発作で寺を飛び出し車にひかれた僧侶の死亡事件の不合理を追究していくうちに、裁判過程では決して取り上げられない真理を見出す。事件の調査の枠を超えて僧侶達との禅問答に深入りしていく。
「しかし待て。個人にとって死が欠如そのものであるなら、あらゆる縁起から逃れてただ行為のために行為するような行為によって決定されると言われる自由も、また永遠の欠如であり続けるか。とすれば、死はなんと仏なるものに似ていることだろう!仏なるものは、謂わば死刑囚の足があと少しで着きそうで着かない床であり、最終的に着いたか否かを本人が知ることは原理的にないという意味で、死と同じ程度に不確実であり、死と同じように個人にとってはけっして存在しないものだということだ。」
ミステリ要素の旋律部分に対して、対象Aの問題はこの物語の通奏低音となる主題だ。現代における宗教とは何か、芸術とは何か、意味と価値を問い直す心身問題、9.11事件、オウム事件以後の日本と世界の変容。キーワードは多彩だが、やがてその重い主題に収斂していく。死刑囚にあてた父親の書簡と、僧侶と刑事の禅問答が哲学的探究に深みを与えている。
読むのに時間のかかる本だが、圧倒的な手応え。とてもおすすめ。
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