ゲゲゲの女房
よく読む水木しげるについて読書。
水木しげる夫人が語った夫唱婦随の半世紀。水木には子供時代~青年時代までの自伝的作品が結構あるが、奥さんの視点が加わって、妖怪漫画家の人生が表裏で見えてくる。基本的に夫を立てる書き方なのではあるが、前半は苦労話が多い。
水木しげるとはお見合い結婚だったそうだが、仲人から、
「当時は、戦後の復興期がすぎ、国民所得倍増計画が発表された時代でしたが、大学卒の初任給でもまだ1万8000円くらいでした。でも、その人は貸本マンガを月に一冊描いていて、それが一冊で三万円になり、その上、戦争で片腕を失ったので、その恩給まであると聞かされました。」
という話で結婚して、東京の水木の住む家に着いたら、予想をはるかに超えたひどいあばら屋で驚く。夫が家や結婚どころではない厳しい経済状態にあることがわかって愕然としたと振り返っている。そして妖怪漫画家との夫婦生活が始まった。質屋に着物を入れてミルク代を捻出した時代もあった。
「穏やかな表情で、飄々と生きている水木のどこからそんな怖い話が生まれてくるのか、不思議でならないほどでした。もうちょっと普通のマンガを描いてくれたらいいのにと思ったりもしました。」
だが水木が漫画を描くのに没頭する姿勢に感動し何も言えなくなったという。
「左腕がないために体をねじって左の肩で紙をおさえるので、自然に顔は紙のすぐ上。汗が流れ落ちて原稿にシミがつかないように、タオルの鉢巻をして、その体勢のまま、ひたすら描き続けていました。」
障害を抱えたが故のこの姿勢が、水木の鬼気迫る妖怪画を生んだのかもしれない。
その不気味なマンガが売れて、お金が入ると水木の自宅改築道楽が始まって、10回の改築でトイレ5カ所、風呂3カ所もある迷路のような家にしてしまったという。半生を奇妙な迷宮建設に費やした「シュヴァルの理想宮」のフェルディナンド・シュヴァルに通じる偏執的なクリエイティビティを感じる逸話。
そして妖怪ブーム。猛烈な忙しさがやってくる。多数のアシスタントを雇い寝る間も惜しんで仕事をする夫。つげ義春や池上遼一がアシスタントをしていたという事実をはじめて知った。池上遼一の絵のうまさに舌を巻いた水木がスカウトしたそうだが、どの作品で手伝っていたのだろう。人を多く雇えば心配も増える。
「水木はずっと順調に仕事をしてきたわけではありません。人気商売ですから、やはり波はありました。中でも、仕事が急に落ち込んだのが昭和五六(一九八一)年ごろからの数年間です。前年には二本あった連載が、その年、一本になり、新たな連載の依頼が途絶えてしまいました。」
水木の経歴を、受賞歴だけで振り返ると、1965年、第6回講談社児童まんが賞、1989年、第13回講談社漫画賞、1996年、第25回日本漫画家協会賞文部大臣賞の各賞を受賞、1991年、紫綬褒章を受章となっているから、途中で幾度か厳しい無風の時代があったことがわかる。
そして再びゲゲゲの鬼太郎や妖怪はブームになる。水木の地元には妖怪ロードもできて、紫綬褒章も受賞でこの本の副題「人生は...終わりよければすべてよし!!」となりつつあると書いている。
水木しげるの娘が書いた父親伝もある。
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