ヤンキー文化論序説
凄く面白い。これまでスルーされてきた日本文化の本質を見事に突いた気がする。微妙なテーマであり、勇気ある研究フォロワーがどのくらい続くのかが気になるところだが。
五十嵐太郎、宮台真司、都築響一、永江朗ら気鋭の論客達が日本の「ヤンキー文化」を真面目に論じた論文集。多くの論者が自分はヤンキー体質ではなくて恐縮だがと前置きをしてから話を始めるのが特徴的である。
横浜銀蝿、BOOWY、矢沢永吉、つんく、SPEED、安室奈美恵、ヒップホップ、工藤静香、浜崎あゆみ、ケータイ小説、暴走族、気志團、YOSHIKI、DJ OZMA、祭り...。日本文化の底流に流れる不良的な要素を大衆は愛する。地域の祭りも元ヤンキーの大人達が取り仕切る。
「日本人の三大気質はヤンキー、ミーハー、オタクである」とナンシー関は言ったそうだが、このうちカルチャーの"ミーハー"と、サブカルの"オタク"は研究が進んでいる。それに対してヤンキーはどうか?。
「本来が不良社会のものであるヤンキー文化は必然的にその担い手が社会の下層に集中してしまうので、「知識人」としての評論家や研究者が生まれてくる余地がなかったのだ。」(暮沢剛巳)
「すなわちモノを言わない大衆である。日本の地方を下支えする文化なのかも知れない。彼らは上京するよりも、地方に根づく。そして良きパパ、ママとなる。筆者の個人的体験から言っても、地方から東京に移り、学歴が上にいくほど、まわりのヤンキー濃度は確実に減っていった。おそらく上京した研究者からは、かつて隣にあったおぞましいものとして無視されている。東京のメディアから情報発信することがない文化。これは見過ごされ、抑圧された日本精神の無意識である。したがって、ヤンキーを考えることは東京なき日本論につながるかもしれない。」(五十嵐太郎)
構造的にメディアの代弁者を持たず、インテリによる社会学の研究対象からも敢えてはずされてきた。だが彼らは分母としては巨大だ。ナンシー関は日本人の5割がヤンキー的なものを必要としていると推定した。「成熟と洗練の拒否」「体制への反抗・地域への順応」「民衆のゴシック」であるヤンキーは実は日本のサイレントマジョリティなのである。
「茶髪狩りのエピソードが示すように、ヤンキーはルールが嫌いといいながら、実際はルールが大好きである。集会の様式にもこだわるし、上下関係にも厳しい。先輩がいうことには絶対服従である。シンボルをとても大事にする。日の丸なんかも好きだし(日の丸が好きなのにYankeeとは)。また他人がルールを守らないことについては不寛容である。他人のことなんかどうでもいい、とはけっしていわない。」(永江朗)
そういわれてみればヤンキー的な生き方は実にオーソドックスな日本人的な生き方なのだ。であるがゆえに、日本では、品がない俗っぽい要素を効果的に取り込むことが大衆に受けるコツなのだ。彼らこそマスである。政治や選挙活動のスタイルがいつまでたっても"ベタ"な印象が強いのも、大衆がヤンキー的なものにひかれるからなのかもしれない。
マスに受けるものってなんだろうなと考える材料としてとても興味深い本だった。
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