日本人の原罪

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・日本人の原罪
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二人の学者が神話と昔話の分析によって日本人ならではの罪悪感について考察する。

著者は日本神話と昔話に特徴的な「見るなの禁止」とそれに伴う罪と恥の意識に注目した。

たとえば「鶴の恩返し」では女が鶴の姿になって機織りをしている姿を、見るなと言われていた男がのぞいてしまう。古事記では死んでしまった妻イザナミを迎えに夫のイザナキが根の国を訪れるが、のぞくなと言われていたのに妻の腐敗した醜悪な姿を見てしまう。男が見るなの禁止を破ると女をはずかしめ傷つけることになり女が去っていく。

「「愛しい」の語源は「痛しい」だと言うが、愛する者が、私たちのために死んだ、あるいは傷ついたとすれば、それはじつに痛いことである。私は、国々や神々を産んで死んだイザナミとは、男性的自我にそういう痛い罪意識をひきだす存在であり、人間のために殺されたキリストに匹敵するものだと思う。ゆえに、この罪は「原罪」と呼ぶに相応しいし、イザナキのみそぎはそれを取り消そうとしていることになる。」

豊かで美しい対象を求め侵入していく欲望が対象を傷つけ破壊してしまったことに対する罪悪感が日本人の原罪意識なのだという主張だ。対象喪失の悲劇と痛みを共有する課題として持つが、そうした感情をどう処理するかには文化的、宗教的な違いが大きく現れる。人間が罰せられるキリスト教の原罪パターンとは異なり、どの話でもタブーを破った側が罪に問われたり、罰せられることことはない構造になっている。

見るな、語るなで当面の秩序を維持していることへの後ろめたさ。

きれいごと、見て見ぬふり、臭い物に蓋、言わぬが花。見るなの禁止は深刻な問題を掘り下げず表面的な安定を継続する知恵であると同時に、差別感情の共謀にまでつながっていく。そうした状況では、見るなの禁を破ることは人間社会の秩序を守る方法として機能すると著者が指摘している。こうした構造で生み出される原罪意識を「心の台本」として持ち繰り返してきたのが日本人であるらしい。

原罪というのはキリスト教独特の考え方だと思っていたが、文化によって異なる原罪意識がありえるのかもしれないと納得させられた。

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このページは、daiyaが2009年3月10日 23:59に書いたブログ記事です。

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