聖なるもの―神的なものの観念における非合理的なもの、および合理的なものとそれとの関係について

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長いタイトル...。

何かを「聖なるもの」と認識するときの"ヌミノーゼ"な感情についての論考。1917年にドイツの宗教学者ルドルフ・オットーによって書かれた宗教学の古典。ヌミノーゼはヌーメン(神性、神霊)という言葉から作られた造語。

ヌミノーゼは複合的な感覚だ。

・被造物感(絶対的なものの前にして感じる絶対依存感)
・畏るべき神秘
-優越するもの
-エネルギッシュなもの
-全く他のもの
・魅惑するもの
・不気味なもの

などの感覚が混ざっていると分析されている。

「私達たちは畏れつつ聖所を敬うが、そこから逃げようとはしないで、かえって中に入ろうとする。」とルターが言ったように、神様に対する私達の感情はアンビバレントなものだ。

私は平均的日本人の無宗教(敢えていえば仏教か)なのだが、キリスト教的なヌミノーゼの感覚はわからないでもない。私はカトリックの幼稚園に通ったが、その入り口にあった純白のマリア像が、怖くてたまらなかった。シスターや保母らに「いつでも神様がみていらっしゃるのですよ」と教え込まれた。それは悪い人間を罰すると同時に真善美の象徴だった。

ヌミノーゼの感覚能力は経験によって誘発されるが、経験に先立つアプリオリなものだと著者は考える。言語学においてチョムスキーが主張する先天的な言語能力と同じように、ヌミノーゼの感覚能力は原初的なものだとする。人間は自然の驚異に対して神的・デーモン的な畏怖を感じることによって、生き延びてくることができた種であるのかもしれない。

そして本書は「聖なるもの」の非合理的な部分と合理的な部分に関する考察である。いくつかの心理的な要素で説明しようとしているが、同時に著者はヌミノーゼなものは完全に要素に還元できるものではないと論じている。宗教は心理学や社会関係で説明できるものではなく、宗教以外の何者でもないというのである。

「宗教において非合理的な要素がいつでも活発で、生気があることは、合理主義を防ぐ備えがあることである。宗教が合理的な要素で豊かに満ちていることは、狂信や神秘狂(Mysizismus)に沈み込んだり、それに固執することを防ぎ、高級宗教、文化宗教、もしくは人類宗教になることを初めて保証する。」

だからキリスト教は偉大なのだというオチに落ち着く。

宗教はいろいろあるが根本はこのヌミノーゼの感覚にあると思う。その根深さ、複雑さが現代世界の争いに繋がっているのだとすれば、この古典は今また読まれるべき本な気がする。

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このページは、daiyaが2009年3月 8日 23:59に書いたブログ記事です。

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