読書論
大正昭和の経済学者で慶応義塾塾長や、天皇陛下の皇太子時代の家庭教師をつとめた小泉信三による読書論の古典。自身の学者人生を振り返り、読書の理想形、何を読むべきか、いかに読むべきかを語った。岩波新書の初版は1950年だ。
名言の連続であるが3つほど感銘したポイントを抜き出してみた。
1 大著を努力と忍耐で読め
「つとめて古典を読むこととともに、私はつとめて大著を読むことを勧めたい。名著は必ずしも大冊ならず、大冊は必ずしも名著でないが、しかしそれぞれの時代を制した名著の多くは大冊であり、そしてこれらの大冊に、偉大なる著者の創始と刻苦と精励とが体化されるのが常である。それを読むことによって、吾々は単にその書の内容を知るばかりでなく、辛苦耐忍、いわば格闘してものを学ぶという、貴重な体験を得るのである。読む本のページ数のみを数えて喜ぶのは無意義であるが、努力して大冊を征服することは、人生の勉強としても大切なことであり、十数日、或いは数十日わき目もふらず一冊の本に取りついて、それを読み、且つ読みおえるという努力と忍耐とは、必ず人に何者かを与えずにはおかない。」
「難解の箇所にぶつかっても、辟易して止めるな、ともかくも読み進んで、読みおえて顧みれば、難解の書と思われたものも意外によく解るものだというのが私の主旨である。」
これはもう知的スパルタ精神論なわけであるが、大著をともかく読み切ると読んだ気になって前へ進めるという経験論は真理といえるだろう。頑張って読み切る過程で精神的に鍛えられるのも事実だ。
2 読んだら何かを書く 漱石と鴎外のやり方
本を読んだら何かを書く習慣を身につければ、読書の感興が大きくなる。少なくとも読書の歩留まりを多くするとして、明治の二人の偉大な思索家の対照的なスタイルを取り上げている。
夏目漱石は蔵書の余白に自分の意見をびっしり書き込む癖があった。意に沿わない部分があると「ソンナ馬鹿ナコトガアルカ」に始まる激しい反論をびっしり書き込んだ記録が残されている。脳内議論家である。一方、森鴎外は、本を読むとすぐに紙に粗筋梗概を書く習慣があった。まとめブロガーであった。
「読み且つ考える読書家の最も立派な一例は漱石であろう。漱石はこの点において鴎外と或る対照をなし、著者に対して、納得できないことはどこまでも争う気むずかしい読者であった。鴎外の博覧は絶倫であったが、彼はしばしばその読み得たものを、興味を以て取り次いで、そこにしばらくの拠り所を借るということをした。」
確固たる信念と定見を持つ漱石と、マイブームを乗り換えていく鴎外。思索のスタイルは違うが、読んだら何かを書くという点では共通していた。とにかく書くべきなのだ。そして著者は読書の功を取り上げるだけでなく、読書の罪、すなわち自分の目で見たものより本に書いてあることのみを信用して観察や思考を怠る危険に警鐘を鳴らしている。
3 古典を読め
「前にもすでに説いたように、人は意外に定評ある古典的名著をおいて、二次的三次的の俗書を読むことに労と時を費やすものである。読むほうはしばらくおき、買うほうでも実につまらないものを買い込み易いのである。それは一には鑑識の不足ということでもあるが、また一つには本が好きだという弱みにもよるのである。」
すぐに役立つ人間はすぐに役に立たなくなる人間であるように、すぐに役立つ本というのはすぐに役立たなくなるものだという。実用や時事の本はすぐ役立つがすぐ使えなくなる。それに対して淘汰を生き残ってきた古典の寿命は長い。吸収した知識は一生物になる。
この本自体が60年近く読み継がれてきた古典だが、速読術や多読術とは次元の異なる読書という行為への本質的な洞察なのである。背筋を伸ばして改めて自分の読書を見直したい人におすすめ。
読書について
http://www.ringolab.com/note/daiya/2009/01/post-913.html
読書という体験
http://www.ringolab.com/note/daiya/2007/05/post-569.html
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