読書について
読書家と文筆家に向けられた厳しい箴言の書。19世紀の哲学者ショウペンハウエルによる古典。
「1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失っていく。」
ショウペンハウエルは人間には思索向きの頭脳と読書向きの頭脳があるという。思索とは自らの思想体系でものを自主的に考える精神の深い行為だが、読書は思索の代用品であり、他人の思索の跡をなぞるだけの浅い行為に過ぎないのだと指摘する。
「即ち精神が代用品になれて事柄そのものの忘却に陥るのを防ぎ、すでに他人の踏み固めた道になれきって、その思索のあとを負うあまり、自らの思索の道から遠ざかるのを防ぐためには、多読を慎むべきである。かりにも読書のために、現実の世界に対する注視を避けるようなことがあってはならない。」
思索によって獲得した知識は自身の思想体系に固く併合されて精神に確固たる位置を占める真理になる。だが読書によって流し込んだだけの雑多な知識は、精神の血肉にならないばかりか、思想の混乱を招く弊害を持つ。だからこそ本を読みすぎるのは愚かな行為なのだ。
「ほとんどの思想は、思索の結果、その思想にたどりついた人にとってのみ価値を持つ。」。私は日々多読に耽っているわけで、大変に耳が痛い内容である。思索の時間をとれないほど読書をしてはいけないとは分かりつつも、読書の楽しさに負けてしまう自分がいる。
「さらに読書にはもう一つむずかしい条件が加わる。すなわち、紙に書かれた思想は一般に、砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。歩行者のたどった道は見える。だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。」
こうして多読に耽る読者を厳しく戒めた後、ショウペンハウエルの矛先はさらに著者や編集者、批評家らが結託して多読文化を作り上げる出版界に向けられる。彼らこそ諸悪の根源だと痛烈に批判する。
「現代の文筆家、すなわち、パンがめあての執筆者、濫作家たちが時代のよき趣味、真の教養に対して企てた謀反は成功した。それは奸智にたけた悪事ではあったが、めざましいものであった。すなわち彼らは、上流社会全体の手綱をとることに成功したのであるが、その秘訣は時代遅れにならない読書法に励むように、つまりいつも皆で同じ新しいものを読んで、会合の際の話題にこと欠かないように、上品な連中を訓練したことである。」
金や地位欲しさのために著述家達は目新しいだけの無価値の内容で新刊本を濫発し、批評家と結託して互いに称賛することで、読まなければ時代遅れになるかのようなムードを作り上げていく。ほとんどの新刊本に価値はないから、読者はもっと古典を読むべきだとショウペンハウエルは勧めている。
深いなあ。とりあえず岩波文庫の古典を10冊注文した(そしてまた多読に...)。
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