人間の境界はどこにあるのだろう?
人権、人間の尊厳、人間性という言葉は現代において絶対的な価値として認識されている。しかし、そもそも人間とは何か、人間と非人間の違いは何かを考えてみると、簡単には答えがでないことに気がつく。
生物学の「種」という定義の根拠は意外に曖昧なものである。ネアンデルタール人のような古生物学的な人類の祖先たちと、現生人類は違うのかはいまだに揉めている。最新の遺伝子工学は人間のゲノムを完全解析して、ある意味で人間の定義を完成させたか。だが、人間の遺伝子の95%はチンパンジーと同じであるということも同時にわかってしまった。生物学的根拠において人間と他の動物を区別する明確な境界は見つからない。
「人間の定義をしようと格闘してきたことがどのように解決されたかの歴史は、驚くほど非合理的な選択基準の採用によってころころ変わり、それらを正当化するためにいかに不適切に科学が使われたかの、長い歴史である。」
人類は人間の境界を文化的な面に見出そうともしてきた。中世の西欧人たちは彼らから見て辺境の人間を、異教で未開だとして、野生の人間、野蛮人と呼び、自分たちと一線を画すものとして扱った。だが、現代になると文化は多様であり、すべては相対的なものであることが明らかになっていった。
「人間だけが理性的である、知的である、霊魂を持つ、創造性がある、良心を持つ、道徳的である、神に似ている、というのはみな神話であるようだ。多くの証拠がそれに挑戦しているのに、私たちがしがみついている信仰の対象であるように思われる。」
この本は読めば読むほど、人間と非人間の境界線を引くことの難しさ、歴史上それがいかに恣意的に動かされてきたかを知ることになる。生物学的、文化的な人間の定義の変遷が面白い。たった数百年間に人間の定義は重要な部分で変わっているのである。
現代は遺伝子操作やクローニング技術、そして人工知能、人工生物の登場によって、人間の定義について新たなコンセンサスをつくらねばならない時代なのでもある。人間の境界をどこにおくかによって、胎児、終末期の患者、昏睡状態の人、重度の精神障害のある人、老齢で認知症の人、その他死に近い人々などの扱いが左右される。人間の境界とは何かは哲学的な問いに終わらない問題なのだ。
この本で一番、印象に残ったセンテンスがこれだ。
「私たち自身、人間とは何を意味するかを知らないのだから、何が人間を人間たらしめているのかを知らないのだから、ゆえに、それを失くしても気づかないだろう。」
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