妖怪談義

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・妖怪談義
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遠野物語の民俗学者 柳田 國男による妖怪論。

「われわれの畏怖というものの、最も原始的な形はどんなものだったのだろうか。何がいかなる経路を通って、複雑なる人間の誤りや戯れと、結合することになったのでしょうか。幸か不幸か隣の大国から、久しきにわたってさまざまな文化を借りおりましたけれども、それだけではまだ日本の天狗や川童、または幽霊などというものの本質を、解読することはできぬように思います。」

これは昭和13,4年頃に書かれたもので、農村にはまだ電気が通じておらず、マスメディアも発達していなかった頃の研究だ。村々の伝承の中には無数の妖怪が登場した。柳田は全国の有志研究者のネットワークを組織して、それらの情報を集約した結果、そこに多くの共通性を見出した。

たとえば河童である。

「私たちの不思議とするのは、人は南北に立ち分かれて風俗も既に同じからず、言葉は時として通訳を要するほど違っているのに、どうして川童という怪物だけが、全国どこへ行ってもただ一種の生活、まるで判こで押したような悪戯を、いつまでも真似つづけているのかという点である。」

ちなみに妖怪を当時の人々はオバケと呼んだ。これは亡くなった人の霊である幽霊の類とは似て非なるものである。

柳田はまず、オバケ(妖怪)は、

・出現場所がだいたい決まっている
・相手を選ばずに現れる
・出る時刻は決まっていない

という性質を持つのに対して、

幽霊は

・向こうからやってくる、追いかけてくる
・これぞという特定の者にだけ現れる
・およそ丑三つ時ぐらいに出る

という違いがあると定義した。

幽霊は個人的なものであるのに対して、妖怪はもっと人々の広く共有する民俗や自然に根ざしたものということ。

柳田は昔の日本の農村部では「人が物を信じ得る範囲は、今よりもかつてはずっと広かった」というが、結局、何が当時の日本人にそういう想像力を働かせていたのだろうか。この本はそれを具体的に追求する小論集である。

柳田は事例の収集に凝るのみで特に結論を出すわけでもないのだが、話を総合すると、それは昔の生活には薄暗がりがよくあったことに起因するのではないかと思った。それは電灯照明が普及していないからこその薄暗がりでもあるし、メディアが未成熟であるが故の情報の薄暗がりでもある。

見たことがない他所者が夕暮れに村はずれの道を通るのに出会う、ということは村人にとってとても怖ろしいことであったという。黄昏(タソガレ)とは「誰かそれ」に由来する言葉だ。薄暗い場所で見知らぬ者と出くわす恐怖を日本人が共有していたから、できた言葉なのだ。

谷崎潤一郎は「陰影礼賛」で薄暗がりが日本人の侘びさび的感性を育んだと書いたが、妖怪を生んだのもまた同じ薄暗がりだったのではないかと思う。そうした美的感性が衰退し、妖怪がいなくなったのも、文明の光とメディアネットワークによる薄暗がりの全滅によるものだとすれば納得がいく。

・陰翳礼讃
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/005012.html

柳田が14歳のときに青空に無数の星が輝く様子を幻視した体験を告白しているところも興味深い。資料を集めて冷静に分析するだけでなく、そうした怪異をリアルに感じることができる心性を持った人だったからこそ、民俗学の祖となりえたのだろう。

妖怪というと水木しげるの妖怪論も面白いのだが創作要素が強い。本物志向を求めるならばフィールドワークから集成されたこの妖怪論がかなり濃い内容だ。巻末の妖怪の名簿(特徴説明つき)は貴重な資料と思う。

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このページは、daiyaが2008年7月21日 23:59に書いたブログ記事です。

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