日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか
斬新な切り口でまっとうな歴史哲学を語る本。
著者の調べによると日本全国で1965年ごろを境に、キツネにばかされたという話が発生しなくなったのだという。本当にキツネが人を化かしていたのか、その話をみんなが信じていたのか、という問題はともかく、そのような話が出なくなったことは歴史的な事実である。
高度経済成長に伴う変化の中で、日本人は知性でとらえられるものを重視するようになった。同時に知性によってとらえられないものはつかめなくなったということでもある。
この本でとても気になった一節がある。かつての村社会における情報流通についての説明である。
「人間を介して情報が伝えられている間は、情報の伝達には時間が必要だった。大事な情報は急いで伝えられただろうが、さほど急がなくてもよい日常世界の情報は、何かの折に伝えられる。ところがその情報は重要ではないのかといえば、村ではそうでもない。なぜならそれらをとおして村人どうしの意思疎通がはかられ、ときにそれが村人の合意形成に役割をはたしていくからである。
もうひとつ、人から人に伝えられていく情報には次のような面もあった。人から人に伝達される以上、そこには脚色が伴われる、ということである。その過程で話が大きくなっていくことも、一部分が強調されることもある。だから聞き手は、話を聞きながらも、その話のなかにある事実らしい部分を自分で探りあてながら聞いていく。すなわち、聞き手が読み取るという行為が伴われてこそ情報だったのである。主観と客観の間で情報が伝えられる以上、それは当然のことであった。」
インターネット時代のコミュニケーションで失われているのがまさにこの
・何かの折に伝えられる情報が重要な共同体
・伝達過程で脚色が加えられ話が大きくなっていくコミュニケーション
ではないだろうかと考えた。
情報流通の効率化、最適化によって、情報を瞬時に正確に伝達できるようになったかわりに、キツネに化かされるような物語だとか、そういう話にリアリティを感じる心を失ってしまったということでもある。死者や動物や自然と対話する能力=キツネにだまされる能力の喪失である。
そのような社会変化の背景には、高度経済成長という「国民の歴史」があった。国民の歴史は宿命的に発展の歴史として描かれると著者は指摘する。「それは簡単な方法で達成される。現在の価値基準で過去を描けばよいのである。たとえば現在の社会には経済力、経済の発展という価値基準がある。この基準にしたがって過去を描けば、過去は経済力が低位な社会であり、停滞した社会としてとらえられる。」
それを経済力を科学技術、人権や市民社会という基準でおきかえてもおなじこと。私たちは遅れた社会から進んだ社会へと進歩発展してきたという物語を信じている。キツネや死者と対話する世界は取り残されて崩壊していった。
「日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか」という問題に対する答えを探す旅は、いつのまにか進歩史観的な歴史認識に大きな疑問符をつきつけて終わる。この本のタイトルと構成に、ちょっと化かされた気がしないでもないのだが、現代人に見えていないものを可視化する内容でたいへん勉強になった。