臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ

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・臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ
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「臈たしアナベル・リイ総毛立ちつ身まかりつ」

まずタイトルをどう読むんだという話である。

「臈たし」は「らふたし」で、意味は大辞林によると、

[1] (女性が)洗練されて美しくなる。優美である。
[2] その道の経験を積む。年功を積む。

という意味である。

わからない人は辞書をひけばいいし、辞書を引きたくない人は読まなければいいのである。そういうスタンスで書かれているのだから。

素直な感想として、これはノーベル賞作家大江健三郎の到達点とその限界を同時にあらわすような作品だなあと思った。この人は数十年間同じものを書いている。この作品も偉大なマンネリである。いつものパターンである。

例によって大作家としての自分と障害を持つ息子が登場する。ふたりの穏やかな生活のかく乱者として旧友が登場する。自分と旧友は過去に痛ましい暴力事件を経験して、強烈なルサンチマンをも共有している。自分らの出自である四国の森の、神話的な伝承と現実が二重写しになって、象徴的なイメージを結ぶ。そのイメージに喚起されてコトを起こしたり、癒されたりする。そして物語の通低音のように繰り返される欧米文学の引用がある。今回はそれが「臈たし」云々なのであった。

まるで新しい挑戦がないのは、ノーベル文学者として正しい戦略なのかもしれない。大江健三郎の文学とは水戸黄門なのだ。もはや読者は期待を裏切る新展開を求めてはいない。編曲、変奏のバリエーションをみて満足したいのである。読者は数十年間も大江健三郎の作品につきあううちに年齢を重ねている。対象はマンネリとはいえ感じ方が違ってくるし発見もある。そこで勝手に深みを発見して感慨深くなったりするのである。

そういう意味で、長年の読者としては水戸黄門的に結構面白かった。今回もひきこまれた、というのが素直な感想だが、日本を代表する大文学者なのだから、「治療塔」くらいまで戻って、新しい形式に挑戦してくれてもいいのではないか、と思ったりもする。

・さようなら、私の本よ
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このページは、daiyaが2008年1月14日 23:59に書いたブログ記事です。

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