武士道
「武士道はその表徴たる桜花と同じく、日本の土地に固有の花である。」。新渡戸稲造が明治32年(1899年)に、滞在中のアメリカでこの本を書いたとき、実践としての武士道は既にとっくに過去のものであった。
「それを生みかつ育てた社会状態は消え失せて既に久しい。しかし昔あって今はあらざる遠き星がなお我々の上にその光を投げているように、封建制度の子たる武士道の光はその母たる制度の死にし後にも生き残って、今なお我々の道徳の道を照らしている。」
日本では宗教なしでどうして道徳を教えるのですか?という外国人の問いに即答できなかった新渡戸は悔しくて、諸外国に日本人の精神的土壌を説明すべく、この本を書いた。結果として、ヨーロッパの騎士道やキリスト教やギリシア哲学における道徳との比較が頻繁に登場する。
たとえば、こんな風に。
「戦闘におけるフェア・プレイ!野蛮と小児らしさのこの原始的なるうちに、甚だ豊かなる道徳の萌芽が存している。これはあらゆる文武の徳の根本ではないか?」
「ブシドウは字義的には武士道、すなわち武士がその職業においてまた日常生活において守るべき道を意味する。一言にすれば「武士の掟」、すなわち武人階級の身分に伴う義務(ノーブレッス・オブリージュ)である。」
「武士道はアリストテレスおよび近世二、三の社会学者と同じく、国家は個人に先んじて存在し、個人は国家の部分および分子としてその中に生まれきたるものと考えたが故に、個人は国家のため、もしくはその正当なる権威の掌握者のために生きまた死ぬべきものとなした。」
「感情の動いた瞬間これを隠すために唇を閉じようと努むるのは、東洋人の心のひねくれでは全然ない。我が国民においては言語はしばしば、かのフランス人(タレラン)の定義したるごとく「思想を隠す技術」である。」
義理と義務、勇気、仁、礼、誠実、名誉、切腹自殺について、欧米や大陸の文化と比較して、共通と相異を詳しく述べている。欧米化した現代人にも、わかりやすい内容になっている。
一方で、この有名な「武士道」本の主張は、伝統的な武士道研究とはだいぶ違っていて、新渡戸稲造の独自の解釈も多いといわれる。「過去の日本は武士の賜である。彼らは国民の花たるのみではなく、またその根であった。あらゆる天の善き賜物は彼らを通して流れ出た。」などは過大評価であろう。武士道を桜にたとえて「しからばかく美しくて散りやすく、風のままに吹き去られ、一道の香気を放ちつつ永久に消え去るこの花、この花が大和魂の型であるのか。日本の魂はかくも脆く消えやすきものであるか」と嘆くような、大げさな文学的な表現も多い。
キリスト教と騎士道を背景に持つ欧米列強に対して、日本にも歴史のある立派な道徳があるのだと、日本代表として熱弁する新渡戸の姿勢が終始感じられる。国際的に理解を得たいという熱意のために、かなり強引に欧米のイディオムと対応関係を張ってしまった感がある。だが、結果として、数十カ国に翻訳されたこのベストセラー本のおかげで、よくもわるくも日本の「武士道」は世界に広く知られることになったのである。
・武士道 初版がデジタルで読める
http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?JP_NUM=40004040&VOL_NUM=00000&KOMA=1&ITYPE=0