〈性〉と日本語―ことばがつくる女と男
ジェンダーと言葉のみだれという切り口から、とてもユニークな日本語論を展開している。分析するテクストも、スパムメールや翻訳文、漫画のスラムダンクやクレヨンしんちゃんなど、幅広い。そうした周縁的なテクストに見られる「ずれた言語行為」にこそ言語の創造性の本質を見出す。
英語と違って、日本語には一人称の幅広いバリエーションがある。私、俺、僕、わし、おいら、あたしなどがあって性別も意識される。語尾にも変化として女ことば、男ことばがあり発話しているのが男か女かを区別できる。
「話し手を<女>と<男>に明確に区別する言語資源を持っている日本語は、「人間は女か男のどちらかである」という社会的信念を日常的な会話において再生産することで異性愛規範を支え続ける強力な言語的装置としての側面を持っているのである。」と著者は指摘する。
日本語は、男は「無徴・標準・中心」で女は「有徴・例外・周縁」という支配原理を内在させているのだという。たとえば、女社長、女医、女流作家、女子社員とは言うが、男社長、男医、男流作家、男子社員とは、まず言わない。
こうした言語のなかの男らしさ、女らしさに反発して、僕や俺という言葉遣いをする少女がいる。上下関係を嫌って敬語を使わない若者がいる。だが、そうした現象に日本語が乱れていると嘆くのは間違いであるというのが著者の意見である。
「日本語のみだれ」を指摘する背景には、「年長者は優れた日本語の使用者である」という考え方があり、さらにその背景には、「大日本語」の如き「正しい日本語の伝統」があるかのような言語イデオロギーがあるという。
「しかし、正しい日本語」ばかりを求める風潮は、じつは現代に生きる私たちも日本語を創造的に使っており、これらの「ずれた言語行為」が少しずつ日本語を変化させているという側面を見えにくくさせている」
ずれた言語行為をあぶりだすために多方面のテクストが分析される。口調の援助交際系スパムメールだとか、ハーレクインロマンスの翻訳文章だとか、漫画スラムダンクに見られる「〜〜っス」という新しい敬体(上下よりも親疎を尊重する敬語として)、ときめきメモリアルの美少女のセリフなど、周縁的で先端的なケースが多く取り上げられている。
そうした「ずれ」こそ言語イデオロギーを乗り越えていくための、創造的実践なのだとして、肯定的に日本語の「みだれ」をとらえなおしている。