箱舟の航海日誌
初版は1925年だから80年以上前だ。医師で神秘思想家のケネスウォーカーのロングセラー作品。イギリスでは児童文学の古典として読まれているが、日本ではほとんど知られていないという。旧約聖書のノアの箱舟をベースにした別バージョンを、子供向けにわかりやすく語る。
ノアが箱舟をつくり、あらゆる動物を乗せて漂流するという骨子は、旧約聖書の原作通りなのだが、動物たちが意思を持ち、しゃべっている点がまず違う。救われるべき動物たちは、無垢な存在で箱舟ではオートミールの食事を食べている。漂流中の不便に多少の不平はあっても、みんなで仲良く暮らしていけるはず、だった。
一頭の「スカブ」という、禁断の肉食動物が紛れ込んでいたことから、物語は妙な方向へ展開していく。はじめは根暗で陰気な存在に過ぎなかったスカブだが、しだいに箱舟の動物社会に不穏な空気を広め始める。動物社会の分裂。そして、聖書の中では語られなかったノアの方舟の大航海の真相がここに明かされる。
本来は児童文学なのだが、大人のための寓話として、随分と考えさせられる小説である。最初は良き意図を持って秩序正しく暮らしていた社会が、小さなきっかけから、次第に悪徳に魅せられるものが増えて、堕落していくという、人間社会の普遍的な様子を描いている。
もともとスカブは、根っからの悪魔的存在ではなく、ある偶然で、肉食という本能に目ざめることになった弱者である。生来の悪人ではなかったのだが、結果的には悪の扇動者になってしまう。悪の起源とは何か、なぜ人は悪徳に魅かれることがあるのか、なぜ社会は分裂していくのか、など、子供向けの文学であるが、背景で扱われているテーマはどれも大きくて深い。