「関係の空気」 「場の空気」
「何ごともその場の空気によって決まる、というのは良いことではない。だが、その場の空気が濃くなればそれに対抗するのは難しいし何よりも損だろう」
日本には少子高齢化問題、年金問題、消費税率、若年層の雇用問題など多数の論点があるのに、激しい対立も現実的な妥協もなく、雰囲気で何となく政策が決まっていく。家庭や会社、2ちゃんねるのような仮想空間でも似たような状況は起きている。場の空気という妖怪に、日本の社会は支配されているのだと著者は指摘する。
「明らかな対立があるのに歩み寄れない。いやその前に対立そのものを浮き彫りにすることもできない。明らかに傷ついている人がいるのに、慰めることができない。気まずい雰囲気が濃くなっているのに、その場を救う言葉が出ない。世代が違うだけで、全く共有言語がない。」などの日本語の窒息が、そこかしこで起きていると問題提起する。
同質性が高い社会であるが故に、前提の確認を省略したり、論理よりも共感を重要視するコミュニケーションスタイルに、空気の妖怪は潜んでいるようである。このなあなあ文化は、時に全体主義的な同調にもつながるし、高度成長の原動力にもなった諸刃の剣であると思う。
ただし、そのネガティブ面だけでなく、西郷隆盛の腹芸交渉術を例に出して、空気コミュニケーションを肯定的にとらえる考え方も紹介されている。
「だが、そのような問題はあるにしても、個別の一対一の会話においては、日本語は「関係の空気」を利用することでコミュニケーションの質を高めてきたのは事実である。空気を使って情報の効率を高めてきたのも事実なら、空気を使って、濃密な情感を表現したり、抽象度の高い価値観の共有を確認してきたのである。」
論理的で明快にペラペラしゃべるリーダーよりも、じっと議論を見守り含蓄のある一言で意思統一をするようなリーダーが日本では人望を集めてきた。マネジメントの効用を考えても、空気の活用は合理的なはずである。
2ちゃんねるのような勝手匿名コミュニティでは、そもそも空気しか通用しないだろう。不特定多数の全員を論破して回るわけにはいかないからだ。だから、スレの住人たちの心に刺さる短い書き込みで、スレの空気を変えて誘導するような技術が、これから一層重要になるのではないかと思う。
場の空気の良い面も悪い面も分析している面白い本。