中世日本の予言書 <未来記>を読む
中世の日本では政治や社会の大きな変化があると、人々は、ずっと昔にそのことを予言していたという「未来記」のことを話題にしたそうだ。この本では「野馬台詩」と聖徳太子が書いたと言われる「聖徳太子未来記」の二つの未来記を読み解き、中世の日本に果たしたその役割を指摘する。
こうした未来記の多くは予言であるにも関わらず、事件が起きた後になって”発掘”されていることが多い。あの事件を予言していた昔の文書が見つかったという風にでてくる。内容は、世の中の荒廃に嫌気がさして神仏が日本を見捨てて去っていき、社会が崩壊するという末法思想である。空から猿が飛来し、黒鼠が牛腸を食らうという象徴的な記述に満ちている。ノストラダムスの大予言みたいである。
未来記は由緒が怪しいし、記述にも矛盾が多く、偽書に分類される。特に近世にはいってからは本気で信じる者が少なく、パロディとして扱われていた。歴史学者はまともな研究対象として見てこなかった。
著者は未来記が発見された中世の当時には、偽書として切り捨ててはならないくらい、大きな影響力を持つ文書だったろう、と再評価している。朝廷が菅原道真の怨霊を本気で信じて政治の意思決定を行ったような時代である。少なくない人々が、予言書の内容に影響を受けていたはずだとして、当時の世情を解説する。民衆だけでなく、後白河院も未来記の一つに魅了されていたという事実も紹介されている。
そこには十分なリアリティがあったのである。そして、現在の状況への批判の姿勢がある。
「もちろん利権や私利私欲をねらって捏造した場合もあるだろう。しかし、時代を動かし、難局を乗り越え、ひたすら世の中や人々の救済を指向し、あらたな未来に挑戦しようとする強い意志がそこには横溢するのではないか。名もない人たちの、未来記に託した想いが凝縮されているともいえよう。」
未来記は、混迷する世の中への問題提起として、当時の誰かが書いた怪文書ということのようだ。怪文書はそれが出てきたコンテクストと突き合わせて読み解くことで、時代状況を知るための有意義なテクストにもなる。中世から近世まで、日本人がどんなフィクションにリアリティを感じてきたかの歴史学として面白く読めた。