小説の読み書き

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・小説の読み書き
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小説家の佐藤正午が岩波書店の月刊誌『図書』に連載した「書く読書」というエッセイ24本に手を加えた新書。川端康成、志賀直哉、森鴎外、永井荷風、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治など各章で偉大な小説家のひとつの作品を著者が読んでは感想文を書いていく。小説家が他人の小説家を評論するときの目の付け所は、やはり普通とは違うなと思った。自分が同じものを書くとしたら、という前提があるからだ。

たとえば、川端康成の「雪国」の章では、有名な書き出し「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。夜の底が白くなった」に対して、なぜ川端は「夜の底」と書いたのか、考察する。わざわざ隠喩を使うわけだから、考えて書いたのに違いないというのである。自然にでてくるわけがない、書き直しもあっただろうというのである。自身も書く人間でなけければ、こういう問題は立てないだろう。

ディティールにこだわる。三島由紀夫は耳がいい、音にこだわる。開高健は目がいい、見たものについての表現が多い、など、そういう読み方もあるのかと気づかされる。小説家たちの文体を書き手の視点で句読点を見て、ここは推敲して書いたはずだ、こちらは推敲していたらそうはならないはずだ、なんてことも見抜いている。

そして、ただの文体研究に終わらないのがこの本の読みどころである。一見、文学部の先生みたいな文体論なのだが、興味が無い作家については、途中で分析は中途半端に投げてしまって余談へ流れていったり、連載時に誤読を読者に指摘された部分に延々と追記をしているが、情報の補足訂正というより、言い訳で上塗りする感じであったり。

真面目に書いている風なのだけれど、どこかおかしくなって笑ってしまう。開高健は細部を観察した表現が多くて女性の肛門の皺について書いているが、そんなに見えすぎるからロマンチックでなくなって、恋愛小説が書けなかったんだろう、という大胆な結論をしてみせたりする。特に、著者の論理展開がまとまらずに、とりとめのなくなった回ほど面白いのだ。著者の地が見える。それが作家としての著者の力であり、個性なのかもしれない。

私もいつか小説を書いてみたい。小説を読みながら、もしこの一行を自分が書くとしたらどう書くかを意識しながら読むというのは、小説作法の本を読むよりも、ずっとスキルの向上に役立ちそうだなと確信した。

このブログ記事について

このページは、daiyaが2007年2月 8日 23:59に書いたブログ記事です。

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