知識人とは何か
大江健三郎が「「伝える言葉」プラス」で絶賛していたのでパレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家エドワード・サイードを読んでみた。サイードは学者としての仕事とともに、社会状況に対しても積極的な発言をしてきた人物であった。この本は時代を代表する研究者が一般にわかりやすくその価値を説明することで知られるBBC放送のリース講演「知識人の表象」(1993年)での講演内容を書籍化したもの。
・エドワード・サイード - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%89%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%89
著者は「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」とそれを定義する。現代の日本ではかつての知識人はただの「物知り」か「専門家」へと後退し、高い志を持った大衆の代弁者としての「知識人」という言葉は「教養」と並んでいまや死語であると思う。
サイードが求める知識人とは上意下達で高い場所から大衆に教えを垂れる存在ではない。支持者や聴衆におもねることなく共感や連帯をつくり、世俗の権力や国家に対して異議申し立てを行うリーダーを指す。
「思うに知識人が迫られるふたつの方向とは、勝利者や支配者に都合のよい安定状態を維持する側にまわるか、さもなくばーーーこちらのほうがはるかに険しい道だがーーー、このような安定状態を、その恩恵にあずかれなかった不運な者たちには絶滅の危機をもたらす危険なものとみなしたうえで、従属経験そのものを、忘れられた人間の記憶ともども考慮する側にまわるということなのだ。」
サイードは、わたしたちは全体主義国家の思想統制や言論活動の制約には監視の目を光らせているのに、「研究や業績も、市場内部でいかに多くのシェアを獲得し維持できるかに主眼がおかれている」自由市場の原理を当然のようにみなしていると批判している。この人気重視の知識流通の仕組みが、戦う知識人にとって大きな脅威なのだという。
そして「現代の知識人は、アマチュアたるべきである。アマチュアというのは、社会のなかで思考し憂慮する人間のことである。」と書いている。専門家が無自覚に行っている活動に対して、一個人として根本的な問いを投げかけ続けるアマチュア精神が、権力に対して真実を明らかにする方法となりうるという。
この本を読むと本来の知識人という概念、社会的役割が明らかになる。権力に対しても、自分の支持者に対しても、常に批判的であり続け、弱者の代弁者であり続けようとする知識人なら、いつの時代でも価値はあるし、情報化社会だからこそ、改めて必要とされているのだと思う。
・「伝える言葉」プラス
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/004794.html
・グロテスクな教養
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/003896.html