時間はどこで生まれるのか
「ミクロの世界に時間というものが仮にあるとしても、マクロの世界における時間とミクロにおける時間は、同一のものではない。また、マクロの世界においても、物理学的時間と人間(生命)が感じる時間は同一のものではない」
マクダカートによる時間の分類が最初に紹介されている。
A系列の時間 自分がいる「今」という視点に依存する主観的な時間
B系列の時間 歴史年表のように過去から未来を見渡す客観的な時間
C系列の時間 順序関係がない、単なる配列
人間が普段、感じているのはA系列の時間である。デカルト哲学やニュートンの科学が相手にしているのはB系列の時間であった。(時間という概念でB系列のイメージを持つ人が多そうである。)。マクダカートはこうも述べている。
「A系列の時間も、B系列の時間も、実在しない。しかし、C系列は実在する可能性がある。」
C系列は時間とは呼べないので、時間は実在しないともいえる。
「時間は、もともと人間の感覚から生まれた概念である。毎日、太陽が昇り、星座が動き、狩りに出た良人の帰りを待ち、新たな生命が生まれ、そして死んだ人は還らない。こうした日常経験の中から、われわれの祖先は時間という言葉を創りだしたのである。」
だから、時間は実在しているのではなく、脳に組み込まれたアプリオリな概念なのである。ミクロの世界、量子力学の世界では、粒子の位置と速度は同時に確定することができない(位置を測定するには粒子に触ることになり、触れると速度が変わってしまう)。粒子のふるまい自体も確率論的で順序や因果関係もない。ミクロの世界に時間の向きや流れは存在しないのだいえる。
これに対してマクロでは、時間というものが仮定される。不可逆なプロセスが存在するからである。エントロピー増大の法則がはたらく世界の中で、人間は秩序に価値を見出す。価値ある秩序とは未来へ向かう意思がなければ存在しない。生命の生きる意志が過去から未来へ向かう時間の向きと流れをうみだしていると著者は結論している。
「われわれは、なぜ秩序に価値を見出すのか。その答は明らかである。それはわれわれが生命だからである。生命こそは秩序そのものであり、秩序なくしては存在しえないものなのだから。それゆえ、われわれはわれわれと似た秩序をもつものに価値を見出すのである。」
人間が感じている主観的時間と、科学実験や計画策定のための客観的時間を統合し、時間とは何かの本質に迫った面白い哲学本である。
・「時間」を哲学する―過去はどこへ行ったのか
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/001835.html
・時間の分子生物学 時計と睡眠の遺伝子
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/002803.html
・瞬間情報処理の心理学―人が二秒間でできること
http://www.ringolab.com/note/daiya/archives/000624.html