テヘランでロリータを読む
1950年生まれ、イラン出身の女性英文学者アーザル・ナフィーシーの回想録。全米150万部のベストセラー。
彼女は父親は元テヘラン市長、母親はイラン初の女性国会議員という名門に生まれたが、欧米で受けた教育により、出自のイスラーム社会を客観視する能力を身につけた。留学から帰国してテヘラン大学で教員になる頃、母国はホメイニの革命が起きて社会状況が一変する。女性に自由はなく、権力や男性への服従を求められた。
投獄と処刑が日常化した社会。風紀の取締りと称して一層、女性の人権は無視される。著者はヴェールの着用を拒否して大学を追われることもあった。そしてイラン・イラク戦争による混乱と恐怖も生々しく書かれている。
状況に失望し大学を辞した彼女は、女性の仲間や学生たちと秘密の読書会を開くようになった。禁じられた書物であるナボコフの「ロリータ」やフィッツジェラルドの「グレート・ギャッツビー」を読む。男性の欲望のために人生を奪われるロリータの姿に、抑圧されたイラン女性の自身の立場を重ねあわせる。
テヘランの読書会の参加者たちに、文学作品や文芸批評が生きる力を与えている。「どんなことがあっても、フィクションを現実の複製として見なすようなまねをして、フィクションを貶めてはならない。私たちがフィクションの中に求めるのは、現実ではなくむしろ真実があらわになる瞬間である」と著者はくちぐせのように話す。
9.11同時多発テロ以降、イスラーム社会に対する注目が集まっている。外部視点のイスラームの表層的な印象ではなく、苦しみながら真っ只中で生きた記録は、そこで起きている真実を世界に伝えている。2003年の本書の出版は絶妙なタイミングであったといえる。
「
私たちのクラスはこのような状況の中、毎週二、三時間なりとも盲目の検閲官の凝視から逃れるためにはじまった。私たちはあそこで、あの居間で、自分も生きた人間なのだと気づいた。どれほど体制が抑圧的になろうと、どれほど私たちが怯え、怖気づいていようと、私たちはロリータのように逃亡を試み、自分たちだけのささやかな自由の空間をつくろうとした。ロリータのように、あらゆる機会をとらえて反抗を見せつけようとした。スカーフの下からちらりと髪を見せ、画一的なくすんだ服装の中にさりげなく色彩を加え、爪を伸ばし、恋をし、禁じられた音楽を聴くことで。」
この文章はここだけを読むと、校則が厳しい保守的な女学校の生徒のつぶやきみたいにも見える。
著者が試みたのは直接的な政治運動への参加ではなく、読書会というささやかな想像力による反抗であった。抗った相手は過激な原理主義の政権ではなくて、このささやかな内面の自由を奪おうとする古い価値観のままのイスラームの普通の世間に対してであったと思う。政権は変わっても戦争が終わっても、世間の本質が変わらなかった。
「好奇心はもっとも純粋なかたちの不服従である」
これはナボコフの一文らしいが、著者の半生を貫く態度そのものであると感じる。本書はイランという特定の国の旧態依然を糾弾するのではなく、世界のあらゆる社会の息苦しい旧弊さ、いわば1.0的世界観を糾弾した世界2.0への期待の書なのだと思う。
抑制された筆遣いで綴られたインテリ女性の回想録であるが、行間に魂の叫びが封じ込められていて心を打つ。
追記:
ところでアマゾンの読者レビューがこの本には2本書き込まれている。今のところ、一方には「15 人中、2人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。」で、もう一方が「 32 人中、30人の方が、「このレビューが参考になった」と投票しています。 」となっている。後者圧倒である。前者のような読み方ももちろんあると思うが、この本のテーマでもある物の見方の違いが現れていて面白く思った。
daiya様
こんにちわ。
たまに拝見させていただいております。
ところで、最近「情報考学」のサイトが重くなったようにかんじるのですが私だけでしょうか?できれば一頁に表示する記事の量を減らしていただけると軽くなるのかなあなんて思ったりします。参考までに。
ちなみに今は20件表示(一番古くて11月16日)ですね。